能動的注意集中の盲点と理想の意識の流れ
自分を内面から変える方法があるが落とし穴もある
世の中には、様々なより良く自分を変えるための方法があります。
そのどれも自分の内面、それも奥深くに意識が到達すればするほど、理想の自分に変えるためのステージに到達できます。
これは間違いがないことであり、やる価値が確実にあることは保証します。
ところが、です。
自分・自意識・無意識・理性といったものが大きな壁として立ちはだかってしまう。
しかもやればやるほど、真剣に取り組めば取り組むほどです。
自分の精神・無意識・神経・脳内・潜在意識といった類のものに、注意と意識を集中させる訓練をした場合、結果的に裏目に出てしまい、何十年訓練をしても、ある一定以上進歩しないケースが多いのです。
呼吸法、瞑想、精神世界…雑念への対処法
心や脳内に興味を持っている人にとって、避けて通ることができない最初の課題は、『雑念への対処法』となるでしょう。
雑念が浮かぶということは、集中していないから起こる。
そういう考えのもと、誰もが雑念をゼロにしよう、そうじゃなくちゃ先に進まないと、一生懸命意識と注意を内部に集中しようとする。
しかし、雑念というものは、意識して打ち消そうとすればするほどますます肥大化していくもの。
簡単にいえば、雑念の外し方は、『雑念の海の中でやる、その中でやらさせてもらう』『雑念があってもそれがどうした、そのままやるぞ』『雑念だらけなのが私の人生だ。いまさらそれがなんだ。来るなら来てみろ』という覚悟を含んだ気持こそが、最終的に雑念にとらわれない自分になれます。
だけど、『雑念への対処法』を誤ると、一層雑念にとらわれて、落ち着かなくなったり、息苦しくなる。
そもそも訓練すら怖くなる。
意識と注意集中の問題
もう一つの問題は、あまり認識していない人が多いけれど、集中の方法だ。
意識と注意集中を誤ったやり方でやってしまい、結果的に何の心の変化も体感の変化もない停滞感が続くことになる。
集中すればなんでもいいわけではないんだ。
あらゆる雑念を超えた集中こそ、次なる扉を開く必要不可欠な要素だと、意気込んでもやり方が間違えると、雑念地獄に陥って、せっかくの瞑想も迷走し始めることになる。
では、その間違った『意識の集中方法』というものはどのようなものなのか?
雑念にとらわれ集中できない人からすれば、集中できるのだからいいじゃないか、と思うかもしれない。
私は雑念だらけで全く進歩しないぞ、と。
でも、その集中は、実にもったいないやり方で、結果として、雑念にとらわれる方法でしかない。
それは何かというと、『能動的注意集中』という意識の流れだ。
殊に心・無意識や脳に対して、能動的注意集中で取り組んでしまうと、ある時点から進歩がピタッと止まってしまう。
悪いことにせっかくの内面への掘り下げが退化してしまう恐れもある。
潜在意識や脳は気力、知恵、理性では制御しきれない
いまさら言うまでもないが、 心や脳の動きはとんでもなくやっかいだ。
気力や知恵、理性だけでは、深いコントロールはできない。
どんなに科学技術や医学薬学のレベルが上がっても、人の心をいい方向には導くことはできない。
逆にその弊害で、人は精神的に、ますます非健康的な状況に追い込まれていなくもない。
だからこそ、古今東西、瞑想や座禅・気功・呼吸法・ヨガやチャクラ、あるいは自己催眠・自律訓練法に至るまで、様々な方法で、己を変えようと大勢の人がチャレンジしてきた。
しかし、ほんの一握りの素質を持った天才といわれる人間のみがその恩恵にあずかっている。
その他ほとんどすべての人間が、やってもやってもますます手が届かないはるか彼方に、無意識と脳の本能レベルは遠ざかっていく。
そうして迷走を続けながら、それでもゴールはあるはずだと、十年、二十年、三十年と時間を費やす。
裏を返せば、それだけ人の潜在意識や脳に可能性が眠っているとみな感じているということだし、追求しがいのある分野だという証明だ。
それに私(岩波)の経験からも、何十年たっても深く研究するしがいのある、とんでもない可能性を秘めた分野なのは間違いない。
心理学や大脳生理学だの、無意識だの脳内ホルモンだの何だのは陳腐化していて、カビが生えてきているけれど、それは現在の限界が古臭くさせているのであって、脳や潜在意識そのものは、想像を絶する凄味がある。
これはうちで深く体験すればするほど、絶対に知覚できることだと思う。
能動的注意集中ではうまくいかない理由
人生はリセットしてやりはじめることはできない。
人の脳や心にはスペアもない。
そして、一度、己の心や脳内に対し、真剣に取り組んだからには、人生をかけてで大きな成果を上げたいはず。
だからこそ、「己の絶対的な集中力が、不可能と思えることでも可能にさせるのだ!」
そういう決意で取り組んでいる人は多いでしょう。
が、前に言ったように、能動的注意集中で取り組むと、せっかくの集中力が全て裏目に出てしまうんだ。
では、その意識の集中の仕方の何がまずいのか?
そして、理想の注意集中とは何だろうか?
自分の心と脳の奥深くに、己の意識を達するために、その2つはどう違うのか?
心と脳の世界により深く入っていくために、確かに注意集中は必要だ。
しかし、持続力が続かない集中(雑念を引き寄せる集中)と、どんどん深い体感の世界に入っていける集中があるのは認識した方がいいです。
その差をこれから述べていきたい。
集中しなくてはいけないのに集中できない問題点
瞑想・気功・ヨガ・自己催眠・自律訓練法といった分野すべてに当てはまることだけど、一番身近な方法として、自律訓練法を例にあげてみたい。
これはシュルツが作ったもので、家で気軽に誰でもできるということで多くの人がやっています。
これをやった人の多くがどのような感想を持っているか、あえてここでは言わないけれど、これには集中力が大事だということで、みんな頑張って意識をある一点に向けようとする。
自律訓練法には入り口として「手が重い」「脚が重い」「手が温かい」「お腹が温かい」などの項目があるけれど、どれもこれも意識の集中が『意図的』になってしまう危険性がある。
何のためにその自律訓練法をやっているのかというと、そもそも脳にリラックス感を与えることが目的の一つだ。
それをベースとして次なるステップに進んでいく。
しかし、能動的に「手が重い! 手が重いんだ! 手が重くなれ!」なんて念じていると、脳が緊張感を引き起こし、逆に疲労してしまう。
何も考えないくつろぎどころか、頭がスッキリしなくなってしまう。
理想を言えば、右手の重さを感じる時、受動的な受け身の「右手がここにあるんだな・・・・あるぞ・・・・おもーい」という感じがいい。
どういうことかというと、「ああ・・・・腕って重くなることもあるんだな・・・・」とあるのを認めながら、重いという感覚がある。
脱力した感じのけだるい重さから、さらに広がった重さが必要だということ。
それが受動的な意識の集中で作り出したものがいいし、そうじゃないと生み出せないものだ。
結果を出すためにどうしても見返りを求めてやってしまう罠
ところが、やる人は、「反応したい、反応しないな、暗示にかからないな」という戦いにすぐ入ってしまう。
すぐに見返りを得ようと、重いという感覚を自分で意図的に無理やり作りだそうとする。
重さの脱力感を待っていられないんだ。
早く作りたい! 作らなくちゃ先に進めない! と思うから、能動的な意図的な意識集中になり、脳が重くなってしまう。
最初の方はまだいい。
なぜなら、手が重くなるとは、能動的注意集中でもある程度可能だからだ。
それで自律神経をコントロールできたと喜ぶ。
しかし、ある時から、どうもうまく重さを感じられなくなる。
だから、なおさら無理矢理頑張って注意集中をして、意識を手の重さに向ける。
「重い! 重くなれ! 重くなるんだ!」
そして、「前はうまくいったのにどうもうまくいかない、何がいけないんだ、集中力が足りないからか?」と雑念と焦りの中で、ますます頑張る。
そこでエンドレスの焦燥感地獄に入って、今度は知恵を使いはじめる。
そうなると、感受性の部分が疎かになり、なんのためにやっているのかわからなくなる。
感じることが最重要なのに。
訓練をやったら疲れた、頭が緊張を残しただけとなる。
それはもう自律訓練法の本来の質から外れてしまう、やればやるほどにだ。
だから、雑念との戦いだけやっていて、進歩していない人がほとんどなんだ。
能動的注意集中では必ず限界が来る
瞑想・坐禅でもヨガ・チャクラでもそう。
己の内部に意識を集中させるすべての方法において、能動的注意集中は妨げになる。
ただし、ここに心と脳への神秘性と無限性が、それでも十年、二十年とかけて取り組み続ける価値を幻出させる。
たまたまタイミングが合って、能動的注意集中をしなくて、受け身の注意集中がピタッとはまって、今までとは違う意識の流れを経験することがある。
努力感なき努力ができていたり、バカになってやれていたり、そういうときは、自分の想像をはるかに超えた変性意識を味わったりする。
「何なんだ、これは!」と感動できるぐらいの体感だ。
だからこそ、もっともっと深まってやろう、なにか価値を作ってやろうと、頑張るし、そういう体験をしたことがある人だけが、十年、二十年と修行ができる。
途中で迷ったり立ち止まったりしながら。
でも、実際にそれだけの価値は確実にある分野だ。
ほんとうに脳の可能性は凄い。
普段感じている感覚というものは、本物の感覚体験からしたら、ミジンコ並みだといっていい。
一度偶然超越した深い意識に達した人も翌日から霧散してしまう原因
しかし、ここでまたしても、内面修行に能動的注意集中で取り組んでしまったりする。
そしてまた袋小路に入る。
しまいにはあのすばらしい過去の感覚まで忘れてしまう。
なまじそこそこの変性意識体感しているだけに、それをまた味わいたいという思考がさらに知恵と雑念を引き寄せる。
本当に人の脳や無意識というのは、手が届かないほど奥深くて複雑怪奇だと呆然とする。
ただ、その複雑怪奇さは、自分の頭で勝手に創り上げてしまったものなんだ。
難しく考えていないときにうまくいっていることを思い起こせば、脳はぴったりハマった時とても単純に深く深く動いてくれる。
注意集中のやり方一つで、脳は単純か複雑難解かはっきり分かれてしまうんだ。
意図的な能動的注意集中になりやすいのは、一人二役で…
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二人一役の限界。誘導された場合の限界なき深化と劇的効果
理想的な受動的注意集中
無念無想は結果的になるもの。最初から求めたら雑念で頭がおかしくなる
受ければわかる、すべてがわかる、理想の意識の流れを体得できる
何よりも自分の覚醒した脳を信頼できるようになる
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※ この文章に当てはまる方は、こちらのプログラムが効果的です
岩波先生著作『奇跡の脳覚醒 頂点を極める成功哲学』 絶賛発売中
発言者:岩波英知 1946年栃木県生まれ 東京と大阪で世界最先端の独自の脳内プログラムを開催。 誰ももたらすことができない決定的な脳内体感を体験した多くの有名人や芸能人、医師や経営者にファンが多い 。 自著(奇跡の脳覚醒)より抜粋 脳の魔術師、鬼才と呼ばれる心理脳内コンサルタント。 若い頃より人間の計り知れない可能性に興味を持ち、脳に関する独自の研究を行う。 そして、誰も到達できない脳覚醒技術の開発に至る。 その技とノウハウは世界一と称されており、岩波の脳覚醒セッションには、その凄さと評判を聞きつけたクライアントが世界中から駆けつけている。 また、その技術のみならず、岩波の言葉は多くの人に大きな刺激を影響を与えている。 |
執筆者・編集者:Dream Art Laboratory 担当スタッフ |