人から好かれる・好かれないという価値尺度は絶対か?
人生で本当に必要な価値観とは?
人に好かれたい、嫌われたくない。しかし…
人は心のどこかで誰からも好かれたい、嫌われたくないと思うベースがある。
そうは言っても、誰からも好まれるわけではないと学んでいる、感じている。
そればっかり考えていても、エネルギーを浪費するし、難しくて疲れるだけだと自覚している。
まあ、生きていく以上、好かれる奴もいるし、敵となる者もいるし、こちらが気にくわない人間、ムカつく人間、イライラする人間もたくさんいる。
人間社会ってそういうものだ。
自分を見失うぐらい他人の評価で生きるな
それを自覚しつつも、人からの評価なんか度外視して、自分の思っている道を青写真を描いて走るのがベター。
「誰からも好かれたい、嫌われたらどうしよう、無視された、嫌われた」なんてずっと考えて疲れてストレスにしてしまい、歩む速度を止めたんじゃ、何のために生きているのかわからない。
他者に重きを起きすぎて、自分を見失い、自信を喪失するだけで、不安と孤独だけの人生になってしまう。
人生において自分と自信がないと、生きている実感も湧かず、苦しみだけを感じる羽目に陥る。
好かれようが嫌われようが人生は一度、走るだけ
好かれながらも、嫌われながらも、とにかく走るのが目的だ。
一度しか人生はないのだから。
そしてあっという間に時間は過ぎ去ってゆく。
たとえ人から好かれても、人生を走れなかったら意味がない。
「みんなから好まれる、好かれてきた」といっても、次に「誰それから嫌われた、敵ができた、障害になった、嫌な上司に当たった、どうしよう…」なんてなったら、ジレンマになる。
何のために生まれてきたのか? その意味から考える
一番の問題は、人から好かれた・嫌われたの価値じゃない。
自分が人生を走れるか、走れないかが重要。
前者の優先順位は、人生において最終的・究極的なそれじゃない。
自分が人生を走れなくて、歩みすら止めてしまったら、人から好かれたって意味をなさない。
歩むことすら出来ない自分=ダメだと感じる自分がいたんじゃ、誰それから好かれた・嫌われなかったって何の足しにもならない。
あくまで生きるってことは、動く・走るのがベース。
歩いて走って動いて、そして死んでいく。
根本で、好かれる・好かれない、嫌われた・嫌われないを問題にしちゃ、動きも止まる。
停滞した自分に自信なんか持てないし、元気が奪われつけ気分も鬱ぐ、ストレスも溜まる。
一度きりの人生、何のために生まれてきたのかわからなくなる。
人から好かれる、嫌われる、そこに絶対的価値はない
人から好かれる・好かれないを自分の絶対価値尺度にしていたら不毛になる。
人間には必ず好く奴、好かない奴が存在する。
うざい、気にくわない、調子に乗ってる、空気が読めない、自分勝手と思ってしまう存在がいる。
逆に好ましい人、友達になりたい人、ずっと一緒にいたい人、気が置ける人もいる。
でもその評価は、全部一人の人間を他者から見た感想かもしれない。
一人の人間でさえ、それくらい評価がばらけてしまう。
Aさんは、Bには気の許せる人間だけど、Cからしたらいけ好かない存在と見られている。
だから、好かれる・好かれないなんて価値尺度は、ひどくもろくて、拙くて、当てにならないものなんだ。
そんなものに人生すべてのエネルギーを費やして、ストレスにしかならないことをやっていたら、当たり前のように悩んでしまう。
同じ人間でも他人から見たら真逆の評価
たとえば、感性がすごくいいと褒められる人がいる。
でも、ある奴からは男のくせに野性味がない、線が細いとボロカスに評価する人間もいる。
そう、いろいろな人間がいて、それぞれの立場と見方があり、好みがあるんだ。
だから、敵も出来るし、味方も出来る。
それでいいんだ。
敵と味方になる人間の比率がどの割合になるか関係ない。
しょせん、三番手・四番手以下の価値しかない。
人生は嫌われてナンボだ
悩みにハマって出られなくなったり、動きが止まり停滞する人は、相対的にもろい「好く・好かない」の価値尺度に絶対的な重きをおいてしまっている。
嫌われたら・・・、非難されたら・・・人生お終いだ、もう生きていけないとなる。
そして1年前に言われたこと、いや10年前のことでも、ずっとクヨクヨ引きずって悩んでしまう。
でも、今まで言ってきたように、それらに絶対的価値はない。
人生は一度きりなのだから、『走ったか、走れなかったか』、そこに『生き甲斐や充実できたか』どうかの価値が出来る。
人からどう思われようが、走ったもの勝ちだ。
人から最低嫌われなくて人生を終えたとしても、それが何になるのか。
走ったことがないとしたら、それこそむなしさが募るだけ。
走った経験がない人は、ずっと自信喪失で苦しむことにもなる。
くすぶったまま生きてきた自分を思い起こすだけで、自分に幻滅してしまう。
自分が何をしたいのか? それを好いてくれた人が一人いただけで儲けもの
周りの目が、自分を好きになるか嫌いになるかではない。
周りの目を気にするのではなく、動くか、動きを止めるかが最大の問題だ。
誰からも好かれるか・好かれないかじゃなく、自分が走った上で、自分に言い寄ってくれた人が一人でもいればもう充分。
人間関係の勝ち組だ。
走っている自分を見て、自分を好いてくれた人がいるという価値観の方が大きい。
走っている自分を、自分が嫌いになるはずないし、他者が認めてくれたらもうけものなだけ。
そして、そんなものうっちゃって、さらに自分の道を進んでほしい。
嫌われたくないと思う人に近寄ってくる人間との傷の舐めあい、共依存
走っていない自分を見て、誰かが好いてくれたとしても意味がない、重みがない。
自信喪失時に好いてくれても、「何か裏があるかも、自分を好いてくれるわけがない」と思ってしまう人もいる。
つまり、停滞した状態で人から好かれてもさほど意味がないということ。
孤独と傷の舐め合い、そして共依存に陥る。
そうなると、お互いに足引っ張りになり、二人一緒に暗闇に落ちていく。
一番自分自身が納得しかねるものが、結局は心に残るはず。
自分を騙して生きるには限界がある。
重みがある一票の方が、重みのない百票よりも重要。
嫌われようが好かれようが、百点満点だろうが、ゼロだろうか、思いっきり走った後に自分に向いてくれる人が一人でもいれば人生は勝ちだ。
それで、評価してくれる人が多かったらいいだけ。
人から好まれる、嫌われる、そんな価値尺度は鼻くそだ
価値観をそこにおくほうがいい。
人生を高い目標設定に向かって走る価値に比べたら、好き・嫌いはほんのちっぽけなもの。
鼻くそみたいなものだ。そんなものは丸めて捨ててしまえばいい。
好かれる好かれない・・・これをすべてのような価値観に持ってしまうからダメ。
実はそんな価値観は小さいものだし、ひどくうつろいやすいものに過ぎない。
人から高い評価を受けたい、自己承認欲求を満たしたい、誰でもある感情
もちろん
勝手にそれが起きてしまう思考回路もわかる。
それはそれでいい。しょうがない。
その思考は当然起きるけれど、起きたからと言って、それに振り回されるんじゃなくて、そんなものだと考える。
自分の走る価値に比べて、これっぽっちの価値に過ぎないものにする。
今までの流れがあって、どうしても絶対的な価値観にしてしまうけれど、走ることの価値観に比べたら、絶対的じゃない。
たしかにすべての人生を、好く・好かないが支配しているように錯覚するけれど、実は違う。
意味がない時に好かれても、所詮意味がない。
くどいくらい言うけれど、走っている時の価値観に比べたら、ちっぽけなものだと思うこと。
せっかくの人生、そうでなくてはもったいない、ひどく損をしてしまう。
絶対感で生きろ
悩みや停滞を打破するには、今まで重きを置いてきた(時には絶対的だと信じてきた)価値尺度が、実は相対的なものなんだということ。
つまり砂上の楼閣でしかないと心で気づけると、人生も走れるようになるし、その分だけ悩みの比率もどんどん薄まってくる。
悩み克服どころか、生き様や充実の獲得にもつながってきます。
一緒に頑張っていきましょう。
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発言者:岩波英知 1946年栃木県生まれ 東京と大阪で世界最先端の独自の脳内プログラムを開催。 誰ももたらすことができない決定的な脳内体感を体験した多くの有名人や芸能人、医師や経営者にファンが多い 。 自著(奇跡の脳覚醒)より抜粋 脳の魔術師、鬼才と呼ばれる心理脳内コンサルタント。 若い頃より人間の計り知れない可能性に興味を持ち、脳に関する独自の研究を行う。 そして、誰も到達できない脳覚醒技術の開発に至る。 その技とノウハウは世界一と称されており、岩波の脳覚醒セッションには、その凄さと評判を聞きつけたクライアントが世界中から駆けつけている。 また、その技術のみならず、岩波の言葉は多くの人に大きな刺激を影響を与えている。 |
執筆者・編集者:Dream Art Laboratory 担当スタッフ |