1 悩み対策の戦略転換
頑張って頑張って頑張り抜いても、いつまでも悩みに浸かっている。
つまり、自分のやってきた対悩み戦略は間違いだったということ。
悩む人はそれでも何か戦略・戦術を立てて苦境を抜けようともがく。
しかし今までと代り映えしない方法では、希望通りの人生は送れない。
気づかないと70,80歳になってもずっとことをやってしまう。
ということは、戦略の失敗を気づくのが迅速なほど、切り替えも早い。
同じ戦略をとり続けると、しまいには悩みにあがく気力もなくなる。
ただボロボロにすり切れて、不幸な人生になってしまう。
「もうこれ以上やったら終わってしまう!」と自覚しないと難しい事態になるだろう。
自分をいい方向に騙すこともかなわない。
時間をかけてゆっくりやればいいじゃ、甘い。
スタートの心構えから変えて行かないと、すべての訓練も効果が全く違ってくる。
同じ戦略をとっていたのでは、どんな努力も無駄になる。
目次へ
2 何のための人生か?
何のために生まれてきたか? いつか死ぬ限られた一回。
目的は、落ち込むためでも、パニックでもない、緊張し続けるためでもない。
仕事じゃない、会社じゃない、上司じゃない、嫌な人間でも、親でもない。
私はこう思って生きている。
「いかに感動して、どれだけ『遊ぶ』ために生まれてきたか。
感動すること、楽しむこと。
そして
自分のエゴを満たし、証を残すこと」
それを考えたら「人がどう見た、とか相手を不愉快にした、上司が・・・、親が・・・、いろいろなものがあるけれど、構っていられない。
周りに変に見られたとか、あの人が敵になったとか、不愉快に思ったとか、瑣末なこと。
相手が
不愉快ならもっと不愉快にしてやるぞ、と思って生きている。
それでも俺が感動するために生きてやる、と」
ある時期そういう決心をしてから、悩みなど寄り付かなくなった。
そういう生き様から組み込まないと、ずっと悩みを一時しのぐためだけの半端な調整になってしまう。
恐ろしいことに、それをやり続けてしまうのが悩みの怖さだ。
悩むためだけの人生、いいはずがない。
目次へ
3 冒険と「冒険」
冒険することはとても大事だ。
しかし冒険をするための前提である「覚悟」がないと、同じ失敗をしてしまう。
自分を強くするために冒険をしてきた人も多い。とても立派なことだ。
しかし、冒険した勇気に見合った成果はなかなかあげられなかった。
軽い悩みなら、冒険するたびにたくましくなれるだろう。
しかし重い悩みだと、今までの思考を取り寄せて、コピーして、冒険しても同じ失敗をしてしまう。
そうなると、次の失敗が怖くなる。
あれだけ勇気を振り絞ったのにもうダメだとなる。
自分の器の許容量を超えて冒険するってことだから、最初に強力な設定が必要になる。
それは冒険をすれば、なにか変わるだろうとか、変わって欲しいという淡い願望ではない。
見返りがなくてもいいという覚悟だったり、今までと同じコピーをしないための冒険する設定が必要。
ただ馬鹿の一つ覚えのように、中途半端な冒険をしてアダになる人もいる。
冒険はリスクがつきものだ。
リスクが取れる人はほんとうに素晴らしい。
しかしもう一つ重要なリスクがある。
冒険して失敗してもいい、どうなってもいいというリスクだ。
それをも覚悟した冒険が、本物のプラスの経験値を与えてくれる。
何億ドルだそうが絶対獲得できない自信となる。
そのためには、常識的な理性的な脳みそでいたら駄目だ。
一種のズレ、狂い、情熱、ハートといった要素がないといけない。
それらは強大な感情です。
それをつくるノウハウがあります。
目次へ
4 矛盾した生き物
人間って矛盾した生き物だ。
とても気になる異性ほどうまくいかない。
でも、どうでもいいと思っている異性から縁があったりする。
呼吸法もそう。
ある感覚を求めると逃げてしまう。
どうでもいいと思うと、寄ってきてくれる。
そして次、期待するとまた去っていく。
これは何度も言うように、人間は道理の生き物ではないということだ。
感情ほど矛盾したものはない。その感情の生き物が人間だ。
女性の感情は理屈ではかれない、厄介だというけれど、男も少なからずそういう所がある。
そういう人間のどうしようもない本質をはっきり知ることで、今までなぜうまくいかなかったわかったりする。
この人間社会では、理性だけでは割りに合わない人生になる。
もっと本能を大事にした生き方をすることが、充実と楽しさを手に入れられる。
いまさら自分の本能や感情を大事にしても大丈夫。
うまくバランスが取れる。
目次へ
5 会話なしでも成立する
「どんな話題にしよう・・・」だと袋小路に入る。
だから「うまく話すな、会話なんかするな」と言っています。
相手を構わないで、それでもいいぞ、というオーラ(空気)がある方が相手は実際安心できる。
「どうにか喋らなくちゃ!」となると変なオーラが出てまずい。
自信をもって喋らない顔をしているのがいい。
自意識が先走ると理性が吹っ飛びおかしくなる。
知恵でどう話そうかと思うと、頭が処理しきれなくなり焦りに入る。
人は会話をあんまり求めていない。
熱烈な恋人たちが、気安い友達同士が、話していなくても、とても心地よい空気が流れているのと同じだ。
そこには安心感がある。共有感がある。
その安心感は、たった一言、二言だけで成立できる。
明るいカラッとした挨拶だけでいい。
そして気を使わない。
あとはなんにもしなくていい。蛇足になる。
最初は訓練が必要だ。勇気もいる。
しかし、それで人間関係って案外成立するものだ。
だから、会話しようとして墓穴を掘ってきた人は、今までの固定観念を捨てよう。
人は迫ってくる人間から遠のく矛盾した性質があるから、会話しようとする行為自体うまくいかないことなんだ。
目次へ
6 自分好きになる手段の幻想
自分に満足したい、自分を好きになりたい人は、人からたくさん好かれれば、自分に満たされるという幻想がある。
それはかすかに当たっているかもしれないが、違うんだ。
だからこそ、いつもどこでも何度でも人からの評価を気にしてしまう。
くたくたになる。そして永遠の評価乞食となってしまう。
何があっても自分のやりたいことをやって、言って、走ることだけが、自分を好きになれる唯一の近道。
人から評価を受けていつも、自信を得たり喪失していたんじゃ、人に振り回されているってことだ。
そんなものは本当に自分好きじゃない。
敵対者、冷たい人間が目の前に現れたら、もうアウト。
目次へ
7 実は誰もが怯えている
人がたくさん集まると、攻撃したりいじめてくる人間が必ず出てくる。
しかし、そういう人間ほど、実は怯えて生きている奴なんだ。
それを教えてくれる人がいないと、「攻撃してくる人・威圧的な人=怖い、かなわない」と思って萎縮してしまう。
実は誰だって不安を感じ、怯えながら生きている。
それを人に見せないために、演技して虚飾をつけ、強がって生きようとする。
攻撃すれば、人から攻撃されないから、攻撃する。
本当に自信がある人は、人なんか攻撃しないし、どうでもいいと思っている。
いざという時のために、いつも自然体でいるものなんだ。
目次へ
8 「こうあるべき」の罠
「こうあるべき」「こうあらねばならぬ」と生きてきて、生きずらくなっている人は実に多い。
しかし考えてみて欲しい。
それば周囲に与えられた「こうあるべき」ではないか? それを続けていた結果、自分の首を締めていないか?
うまく乗り切ってきても、もう限界になってはいないか?
自らの主体的意志でこうあるべきをやっていないと、自分がなくなる。そして心がひどく脆くなる。
過去に知らず知らず生まれ育った環境、他人のエゴや親などの思惑で、今の「こうあるべき」を作ってしまったら、それは手かせ足かせにしかならない。
自分がないからだ。達成感もない。いつも失敗した時の不安ばかりを拾ってしまう。
結局「こうあるべき」がぼろぼろになりできなくなる。
そして落ち込みと焦りの連鎖に入る。
そうはいっても「こうあるべき」がない自分の人生もできない、抵抗感がある人がいる。
一種の完全主義だったり、昔やってきたこと、頑張ってきたことを捨てる勇気が持てないから生じていることかもしれない。
しかしそれをやっていたんじゃ、先はない。
本当の自分の人生を回復できない。
真の「こうあるべき」とは、自らの作り出したものが本物だ。それならば、「こうあるべき」信念はものすごい威力を発揮してくれる。
他人経由の勝手に刷り込まれた「こうあるべき」は、すぐ捨てた方が楽に生きられるし、結果も出せる人生になれる。
目次へ
9 心を楽にする方法
悩んでいる人にとって、心が楽ってどんな状態なのか想像がつかない。
常に悩みに苛まれていて、脳内では一種のパニック状態になっている。
「なぜだめなんだ?」「なぜ自分だけ!」「また駄目だ」「ああなったらどうしよう・・・」脳内に常にぐるぐる渦を巻いている。
では、どうしたら心に余裕ができ、落ち着きを取り戻し、楽になれるのか?
単純明快に言えば、受け入れれば楽になる。
しかし「受け入れたくないから、これほど悩んでいるんじゃないか!」とムッとする人もいるだろう。
それに受け入れたくても、どうやって受け入れていいかわからないという人も多い。
普通の頭の状態では、楽にならない。
焦りや葛藤と戦ってしまうからだ。
だから悩みは楽にならないことが多く、逆にあらゆる努力で悪化しやすいんだ。
ここでは特殊な頭の状態の時に、言葉かけや本人のルーツ整理によって、脳が拒否していたものを受け入れてくれるように持っていける。
平常心では、脳は絶対拒否する。
それは本人にとって悩みは不都合の何ものでもないからだ。つまり理性が絶対勝ってしまう。
しかし、感情が圧倒的に優位な場合、あるいは理性が極端に少ない時、脳は言葉かけに素直に反応してくれる。
乾いたスポンジが水を吸収するように。
これはある特殊な脳の働きの時に可能になる。
脳が悩みの受け入れ態勢に入ると、心に余裕が生まれる。
そして、自己肯定感が出てくる。
この肯定感が重要で、自信にも繋がるし、生きる歓びにもつながる。
覚悟も持てるようになる。あらたに気づくこともたくさん出てくる。
どんどん好循環に入っていける。
目次へ
10 プラス暗示と大義名分
暗示の言葉は自分なりの大義名分がある方がいい。
人殺しも戦争なら英雄。
大義名分のもと遂行される。
いくら客観的に良い暗示だと思っていても、自分が罪悪感が出たり、葛藤を起こす暗示の言葉よりも、正当性や大義名分が自分の中で持てる言葉を考える。
戦争は正義の名のもとにどの勢力も行なっている。
正義の反対語は悪ではなく、別の正義という。
だからこそ、どの勢力も大義名分のもと戦う。
つまり、暗示を自分の深層心理に入れるにも、自分なりの大義名分に絡んだ暗示が必要になる。
目次へ
11 失敗を受け入れる覚悟
完璧主義だと更なる失敗への恐怖が増してしまう。
結果、何もできない自分になり、苦しむ、落ち込む。
失敗があるのが人生、それすら受け入れて進む。
それが本当の完璧主義
失敗への恐怖というリスクを受け入れる覚悟をもつ。
そちらのほうがよっぽど「完璧」に行くし、精神的に飛躍できる。
目次へ
12 地
地で生きている人が、いつもうまく行って得している。
それと反対にしている人は、いつもハズレクジ。
地を出している人を見てみると、イキイキしている。
変に思われるな、まずいな、というのは逆に負のオーラが出てしまう。
地を出すことは恥ではない。
自分の存在証明と生き様を与えてくれる。
そして、何より人から信頼される。
地を隠そうとする人間は、相手に不安を感じさせる。
人とうまくやるためには、お綺麗な会話は必要ない。
あくまで地だけで成立するものだ。
目次へ
13 イカレ・ズレ・狂
恥をかかず得をしようと知恵を使って小細工をしているとあっという間に人生が終わってしまう。
俺はこれで行くというイカレ、狂いが必要だ。
時代を動かしてきたのも「狂」だ。
そこまで大げさじゃなくても、人を動かすのも、自分を動かすのも「狂」しかない。
しかし安心して欲しい。
いままでそれとは全く正反対のことをしていたから、いくらズレてもイカレても狂っても、結局バランスが取れる。
しかし中途半端に調整していたんじゃ、すぐに悩みの思考に引っ張られて泥沼にハマるだけ。
イカレ・ズレ・狂いは、知恵すらはるかに凌駕するパワーを持つ。
そして、自分に満たした感情を与えてくれる。
悩みも一種のズレ・イカレ・狂いだが、そんな人ほど普通を追い求める。
もう一段階飛び越えて行っちゃったほうが、普通以上の価値を得られる。
目次へ
14 満たされぬ心と恋人
ずっと心に空白や孤独感を抱えてきた人は、その精神状態から作る恋人もいつも似たようなタイプを選んでしまう。
孤独感がぽっかり心にあるから、心の空白を埋めてくれそうな恋人を作ろうとする(一夜限りの恋人も含む)。
しかし自分の孤独感を埋めるために恋人を作ると、うまくいかない。
仮に最初うまくいっても悲しい破局に終わり、それを何度も繰り返してしまうのは、孤独が大いに関係している。
これは男運、女運が悪いと片付けられる問題じゃない。
原因がわからないと、さらに相手を求め悲しい結末になり、孤独でますますボロボロになる。
孤独を抱えたまま育つと心がもろくなる。
恋人を無意識的にも心の空白を埋めるために利用しようとすると、相手の心とどこかですれ違う。
相手からしたら、たまったものじゃない。自分も心を満たされたいはずなのに。
あるいは悪い男(女)にコロッと騙される。
孤独感に苛まれる人間は、ニュースでよく見るように、簡単に悪い人間に喰い物にされてしまう。
しかし、本人は「なぜうまくいかないの?」と理由がわからない。男運(女運)が悪いと思うしかない。
だから何度も同じ失敗をして、孤独感を増大させる羽目になる。
恋人運の悪さは、実は自らの孤独に原因があることが非常に多い。
自分の悩みのルーツは、どこまで行っても、その人の行動について回る。意識する、しないに限らずだ。
その心の状態は、選ぶ相手まで、知らず知らず決めている。
もし恋人が同じ孤独感を抱えていたなら、さらにコンディションが落ちる。
傷の舐め合いになって、足の引っ張り合いになって、お互いボロボロになるからだ。
運が悪い人生を変えるのは、結局自分を根元から変えるしかない。
コンディションが上がっていくと、昔と同じタイプの相手は選ばない。
好みのタイプも変わってくる。
いずれ素晴らしい相手に恵まれ、さらにコンディションも上向く。
とはいえ、人間はそもそも孤独な生き物だ。
孤独なんて当たり前なんだという気持ちでいたほうが、よっぽど先が開ける。
目次へ
15 防衛本能の行き着く処
神経症的症状とは自分の身を守るために発する。
本来なら人にあって然るべきものだ。
しかし過度に防衛本能が働くと、逆に自分の身を守ることもおぼつかない。
そんな人はリラックスや体の力が緩むことすら恐怖が出てしまう。
歓迎すべき、とても心地よいリラックス感が不安でたまらない。
いつも気を張り身構えて生きることしか知らなくなるからだ。
そして、気を張っても恐怖と不安を引き寄せ、リラックスしても不安でたまらない神経症ができあがる。
どっちにいこうとしてもとても落ち着かない。
だから
防衛本能をとっていかないといつまでも楽にならない。
人間関係も苦手になるし、何から何までいいことはない。
他人はもちろん、自分に気を許せなくなるし、しまいには嫌いになる。
己の身を守るためにやっていることが、自分を苦しめるのは非常に矛盾だ。
過度の防衛本能は、そうならざるを得ないその人オリジナルの事情があってできあがる。
好き好んで防衛本能を高めている人はいない。
特殊な意識の流れの中で、その原因や種を沈めていくことで、心と脳を洗い、すっきりさせていくことが大事になる。
目次へ
16 感情の源泉
楽しい感情、嬉しい感情、湧き上がる感情、血沸き肉踊る感情・・・・
抑うつ状態の人が、今一度あの時のような感情を蘇らせたい、と強く願う。
しかし残酷なことに、感情は出そうと思って出せるものではない。
無理に出そうとすると、残りのすべての感情まで潰してしまう。
焦りの感情が、すべてを火消してしまうのだ。
やればやるほど底なし沼に陥っていく。
それなら「一生このままでいい、このままいくぞ」と覚悟を決めて行くことが、感情そのものになる。
それが豊かな感情の種になる。
プラスの感情が出ない人にそれは酷かもしれない。最初はなかなか結果に結びつかないからだ。
しかし、あのままいっても先行きは見えている。
逆転の発想をしないとプラスに作用する感情・情動は沸き上がってこない。
もちろん、なぜ感情が死んだのか、潜在意識から洗い出して処理することもやっていく。
その両方向からやることで、はじめて生きていてよかった実感が出てくる。
目次へ
17 暴発した自己主張
「自己主張は大事」と私はよく言っている。
そこで「私はちゃんと自己主張をしてきた!!」という人がいる。
話を聞くと、耐え切れないあまりに錯乱・暴発して、人に食ってかかったことを自己主張をしたと言っている。
だが、暴発、錯乱と自己主張は全く意味が違う。
この自己主張を履き違えると、ただの自爆に終わってしまい、自分も周りも不幸になるだけだ。
それに人に噛み付けばいいと捉える人もいる。
本当の自己主張とは小出しにするもので、追い詰められた末の暴発や噛み付きとは全く違う。
「もうやってられない!」という爆発は、悔恨と自己嫌悪を引き寄せる。
核爆発を自分のテリトリーでやっているようなものだ。
受け身で耐えに耐え続けた末の大噴火だから、あらゆる状況をまずくする。
真の自己主張は、あくまで自分を『主』としてやらなくてはいけない。
そして普段から小出しにすることがコツ。
ここ一番に大噴火を起こしてはいけない。
さもないと、溶岩流が自分だけに襲いかかる。
普段から小さな自己主張ができると、自分も気持ちがいい、相手も自分の本音がわかり信用してくれる。
お互いに建設的な方向に進む。
目次へ
18 自己肯定感の獲得
悩まない人間の性質に、自己肯定感がある。
自分を肯定すると楽になれる。まあ、当たり前の話だ。
だけど、悩んでいる時できない話だ。できないから悩むし、高いお金を払ってまで何とかしようとはしない。
悩めば悩むほど、ますます否定の感情が増す。
そこで、何をしていくべきかというと「悩んで当然だった。同じ状況で生きてきたら、どんな人でもなるよな」と頭の表面だけではなく、脳の奥深くから思えた時、それが肯定感につながってくれる。
この「どんな人でも」という考えは、まず自己否定感を薄めてくれる。
それを特殊な深い脳覚醒トランス状態下でやると、もっと心が落ち着いて来る。
脳が悩んでいる現状と過去を受け入れてくれるし、話に耳を傾ける回路が開くから、自分の悩みのルーツのドラマを認められるようになる。
心の重荷が取れたようにすっきりしてくる。
自分のつらい過去を思い出すことはたしかに憂鬱な経験だ。
しかし、そのつらい過去が現在の自己否定につながっているから、そこを処理しないといつまでも精神的に上向くことはない。
悩むルーツはどんなに無意識下に抑圧しても、ひどい悪臭を普段の日常の意識上にまで漂わせてくる。
その脳内環境にずっといたら、心理的に優れなくなるのは当然だ。
脳覚醒トランス状態という普通の意識の流れではない状態で行うルーツ整理は、つらい過去でも綺麗に洗い流してくれる性質がある。
それが深く長い状態であればあるほど、劇的に効果を上げる。
目次へ
19 自他の心理的乖離
社会不安障害、うつ病、パニック障害、強迫性障害、その他様々な神経症的症状は、どんなに物わかりが良い親でも理解できない世界だ。
思春期にそういう罠に陥った子供を見て、親は「最近ちょっと元気が無いな」「なにか悩んでいるな」としか思わない、いや思えない。
これは他の神経症の悩みの人の症状を聞いても、執着していない人にとっては、悩みを理解し難いことと同じ。
なんでそこまで思いつめるの?と考えてしまう。
人に不安を覚える、落ち込む、汚さが気になる、人の目が気になる、動悸息切れがする、眠れない・・・・これらは誰もが経験することだ。
しかし、神経症のそれとは悩みの次元が違う。
だから「そこまで思いつめなくても・・・」「俺だって悩んでいたんだぞ」「時間が解決してくれるさ」「もっと気楽に生きればいいわよ」「なんでそんな事で悩むんだ」「根性でどうにでもなる」「誰だって似た悩みを経験しているんだぞ」というお決まりのセリフが出てくるわけだ。
ご存知のように、そんなアドバイスで悩みが晴れたら、誰だって努力と忍耐と根性を振り絞ったあげく、悩みが悪化するわけはない。
だから理解されたくて悩みを打ち明けた人は、ショックを受け、さらに落ち込む。
「誰もわかってくれない・・・」と自分の殻に引き篭もるか、自暴自棄になったりする。
その自分と他者のギャップに苦しんできた人はとても多い。
つまり、他人に過度の期待をする生き方は、どちらにしても、裏切られてしまうんだ。
どんなに関係良好で物わかりがいい親でさえ、子供の心理までは理解できない。
こういう観点からも、自分に主体性と芯を持っていない生き方は、どこまでも他人に振り回され、悩みを引き寄せるだけだ。
目次へ
20 流れない会話
会話は無理に話そうとしないことがコツ。
会話や対話に自信が持てないときこそ、「なにか喋らなくちゃいけない」という観念にとらわれる。
当然、うまくいかないわけだから、さらに自信がなくなる。
そうなると、ますます「何か話そう、うまくやらなくちゃ、沈黙になったらヤバイ、変に思われたらどうしよう、私と話して迷惑をしている」と思って、うまくやろうと自滅していく。
人は焦りの感情で、うまく話そうとしても、望みどおり話せるほど器用な生き物ではない。
自信がある人は、話さなくても別段どうでもよくて、結局その人との関係は成立できると思っている。
ということは、会話や対人関係に自信を持つためには、「どう話そう、喋ろうか」と思ってはいけない。
そうしなくても、「ちゃんと人間関係は成立するんだ」とわかることが一番自信を得られる。
もし話が上手い人がいたとしても、それはうまく話そうなんて全く思っていないからこそ、脳が思う存分作動して話せるだけだ。
私(岩波)もペラペラ話すかもしれないが、うまく喋ろうなんて1ミリも思っていない。
人とうまくやろう、よく思われたいなんていう気持もない。
だからこそエンドレスで話せるだけであって、うまく会話したいと思う人は、順番から考えたほうがいい。
私だって、誰だって、「うまくやろう、流れるように話してやろう」と思って焦ったら、うまく会話できなくなるだろう。
目次へ
21 モテる者・もたざる者
「女性は厭きた」という男を女性は好きになる。
「女性と付き合いたい、お近づきになりたい」オーラを出している男ほど敬遠される。
何が言いたいか。
『人間関係では、相手を求めすぎるとうまくいかなくなる』ということだ。
これは女性でも同じ。
男はずるいから、孤独が嫌でたまらない女性を、安っぽく見たり、軽く見たり、利用しようとする。
人間関係でうまくいかない人の原因の多くが、それだったりする。
結局、「俺(私)はひとりでも生きていく」覚悟を持っている人間ほど、意外に縁があったりする。
どれだけ自分自身に、確固たる芯とハートを持てるかが、すべてをうまくいかせるコツなんだ。
目次へ
22 家庭環境と心の枠
しょっちゅう喧嘩している親、あるいは口も聞かない冷めた夫婦に育てられた子供は、何かあるとすぐ萎縮しやすい。
その環境で育った子供は、子供なりに知恵を使って大人をやってしまう。
そうなると自分への信頼感が作られにくいし、常に親の態度にビクビクしてしまう。
そして、これを家庭外でも適用してしまう。
なぜなら、家庭環境は、子供にとって唯一絶対の価値尺度だからだ。
常に家でも気を許せないで育った子供は、ほぼ例外なく、他人への接触も苦手になる。
術を知らない、気を張り詰めているから当たり前の話だ。
それでもなんとかうまくやらなくちゃいけないから、常に人の顔色を伺う性格になる。
親を反面教師にできれば理想だし、学校での人間関係で、親からの「呪い」を外せる子供はいないわけではない。
しかし、幼い頃からの刷り込み、及び経験値の少なさによる学校でのショックな出来事の連鎖で、ズルズル地すべり的に余裕が無い人生になってしまう。
目次へ
23 知恵の生み出せる限界
知恵による悩み対策や焦りと不安の感情対策をすると、悩みやマイナスの感情を強化してしまう。
なぜ知恵を使ってしまうのか? それに知恵がまずいと頭でわかっていても、さらに頼ろうとしてしまうのか?
それしか自分を守る防衛手段がないからだ。
武器も自信も何もない人間が、唯一使える悩み脱出方法は、知恵でうまく一時しのぎでもいいから切り抜けようとすることしかない。
しかし、知恵をいくらうまく使っても、時限爆弾の爆発を5分か10分ぐらいしか延ばせられない。
つまり、いつ潜在意識の方で、不安が爆発するかもしれない爆弾を感じながら生きなければいけない。
これでは、予期不安や焦燥感が消えることはない。
下手すると、知恵の対策で爆発を早めたり、さらに被害を大きくしてしまう発火物を潜在意識に放り込んでしまう。
知恵では、自分を守れない。同時に知恵は自分の安全な道を探すためにしか作動しない。
これがとてもまずい。安全な道だと思ってやることが、すべて破滅の道に繋がってしまうからだ。
ではどうしたら結果的に守れるのか? 安全安心の道で走れるのか?
攻めるしかない。守ろうとした時点で、時限爆弾のスイッチは入ってしまう。
うまくそれまでやってきた人間が、守りに入った瞬間、どん底に転がり落ちていく。
こんな話はたくさんある。
原因は急に守りに入ってしまったから。
そりゃあ、最初は攻めることは怖い。
リスクも降り掛かってくるかもしれない。
その都度、あの場合はこう、この場合はこうと、対策を立てると、次なるリスクに対応しきれなくなる。
その繰り返しこそが悩みの歴史だ。
受け身に立たされていた者が、急に主体的に攻めの姿勢に転ずることはとても勇気と覚悟がいる。
そこで無理にプラス暗示を入れ込もうとしても、ジレンマに陥って、人によっては、コンディションを落としてしまう。
だからこそ、なぜ守りになってしまったのか? 守り続けてどうなったか? 知恵を使ってどう失敗して傷口を広げてきたか?
最悪の場面集やルーツ整理を、私と一緒に創出するある特殊な脳の状態(脳覚醒トランス状態)で思い浮かべると、攻めに転じられない、覚悟を持てない原因の種を沈めることが出来たり、取り除けることができる。
言葉で説明されただけではわからない「特別な気づき」を得ることができるようになる。
あるいはそれができるベースの脳を持てる。
余裕も生まれてくれる。
だからこそ、プラス暗示も入るようになるし、前向きに主体的に走れるようになるんだ。
目次へ
24 漠然とした不安の種
みんなは地で行って楽しそうなのに、どうして自分だけダメなんだと思ってしまう。
常に人と比べて、自然体になれない自分に嫌悪感をもつ。
常にチェックチェック、チェックの連続。
心が重たいし、ぜんぜん楽しくない。
でも人に合わせなければならない窮屈さ。
無理して演じて、普通を装う。
そうなると、恒常化した抑うつ状態が当たり前になってしまう。
生きている意味、楽しさとは? 存在価値は何か?
憂鬱な哲学と形而上学にはまり希死念慮が常について回る。
こういうパターンで鬱病になるベースをつくっている人が多い。
漠然とした不安や抑うつ状態だとしても、必ず原因と不安の種はある。
そこを処理することをすれば、さらに原因が自覚できるし、不安の種もなくなっていく。
人は生きている以上、不安だらけだ。
それを見ないようにして押し殺すと、無意識で不安の種が制御不能になるまで発芽し、生い茂り、一生漠然とした不安を抱えて生きることになってしまう。
逆に言えば、脳を根底から洗い流すことで、不安の種や現在の不安の感情も徐々に抜け出ていってくれる。
そういうことがどこよりも強烈に根本からできるプログラムを用意しています。
ただし、家で憂鬱なことを思い浮かべたとき、さらに堕ちてしまう人は、一人ではやらないでください。
ある特殊な脳の状態の時だけ、洗い流される性質のものだから。
目次へ
25 己だけは騙せない
色々悩み対策をとって、うまく切り抜けようとすると、これがダメだったらまた考える、あれが難しくなったら別の方法を使ってまた考える。
そして、「どうかな、うまくいくかな」と常にチェックチェックの連続に陥る。
悩み一つ一つにあれこれ知恵を使って、その都度振り回されて、不安に駆られてるだけに終わる。
一時しのぎは日々生きるためにどうしても必要なことかもしれないけれど、いちいち小細工を一生していたのでは、一時しのぎだけの人生になる。
それどころか、年齢とともに一時しのぎすらおぼつかなくなる。
悩み振り回された一生という苦しい結末になりかねない。
どこかで一つのことだけでもいいから、知恵も状況判断も小細工も捨て、バカになって取り組むことをしないと、その悪循環の回路から脱出できない。
馬鹿になろうと知恵を使ってしまう人がいる。そんなことはありえない。
単純に捉えてバカになって行動する。
思い切りも必要。勇気もいるだろう。
だけどグダグダやって今の苦境ならば、「もういい!!」という反動をバネにして取り組んでみてもいい。
はっきり言えば、悩んでしまったらその優秀な知恵もすべてがマイナスに作用する。
一時しのぎは所詮一時しのぎでしかない。
一時しのぎは、結局自分をうまく騙そうとする行為だ。
しかし、自分はなかなか騙せない。自分だけに一番手ごわい。だから知恵を使って自分をどうにかすることは一番的が外れた行為なんだ。
自分を騙すにはバカになることしかない。
目次へ
26 割り切りが勝負を決める
割り切りがある人は悩まない。悩まなくなる人は割り切りがついていく。
割り切れるということほど素晴らしい行為はないし、見ていてこんなさっぱりした気持いいことはない。
割り切りは、つまり「どうでもいい」「だからどうした」「それがなんなんだ」という心境に近い。
だからこそ、次のステップやアクションに移れる。
例えば恋人や片思いの人にふられる。
割り切りがないと、その人がどんどん素晴らしい人に見え、十数年たってもまだ気持ちの整理がつかない。
そしていつまでもグジグジと悩んでしまう。
割り切りの無さが他に波及し、何事にもすぐ敏感になって、クヨクヨした後悔の日々になる。
でも、「そんなことどうでもいい!!」と思える人は、次には更に素敵な人に出会ったり、さっぱりした人間になっていく。
そうなると、すべての運が開けてくる。
割り切れない人は、もっとつまらない人間に引っかかる。
運気・運勢なんてものは結局そういうところからしか開けないと思う。
「どうでもいい」という割り切りの心境は、ある物事に執着がなくなっていくことでもある。
執着はその人だけのオリジナルな事情によって作り上げられる。
だから、そのルーツを特殊状態下で脳から洗い出すことをやっていく。
もう一つに「捨てる」という要素がある。
割り切りが悪い人は、なんでも捨てられない。捨てたらもったいないかな? 後悔するかな? なんてやっていたらもっと割り切りが悪い人になる。
捨てること一つとっても覚悟がいる。
だから、そこをやっていくことも必要だ。
目次へ
27 どんどんケガをしろ
今日ケガをして、明日もケガをして、明後日もケガをする。
自分の籠の中から出てケガをする
世の中を力強く生き抜くには「ケガはつきまとってもいい、俺の人生につきものだ、何十回ケガをしてもいい」という覚悟が必要になる。
ケガは俺の日常だという覚悟を脳に、情動に入れ込む。
「どうやったらケガをしないですむかな・・・・乗り越えられるかな」という心構えじゃいけない。
ますます「ケガしたかな、平気かな、どうかな」と、常にチェックしてしまう。
そればかりかちょっとしたかすり傷ですら、大ケガに感じて恐慌状態になる。
いつもかすり傷だらけの人は、そんなものにいちいち構っていない。いつの間にか傷は癒えている。
もう今までしたくないケガをしてきたんだからもう嫌だ、という気持はわかるけれど、それだとかすり傷でも大きなケガのように苦しみの元になる。
そして、したくもないケガばっかりに見舞われる。
ケガへの覚悟を持っている人は、意外なことにケガをしない。
受け身のケガほど治りは遅いし破傷風になる。
しかし主体性のあるケガは勲章にしかならない。
あらゆる生命の営みの栄養源になる。
目次へ
28 トランスの深さと長さを妨げるもの
脳覚醒トランス状態の深さや余韻の長さは、訓練や想像力の有無もあるけれど、プライドとか見栄などに大きく関係する。
それが防衛本能を高まらせるから、せっかく深く入れるのに自分でストップさせてしまう。
知恵を使うのも深く入れない要素だ。
「ああやればいいかな、こうやればうまくできるかな、どうしたらうまくやれるかな、深く入ってやろうかな」では自分で深さを消してしまう。
深く入ろうとする意図や努力が逆効果に行く。
これはとても矛盾していることだけど、その矛盾こそが心であり脳だ。
こればっかりはどうしようもない。
トランス状態にかぎらず、呼吸法、暗示もそう。
バカになって諦めた分だけ、そしてすべてに身を委ねた分だけ深く入れる。
芸術関係など感覚を使うことすべてにこれは当てはまる。
芸術家で力を本当に発揮できる人は、その瞬間だけは、理性なんか吹っ飛んでいる。
理性を超えた世界で勝負できる人だけが、芸術の世界に限らず、実社会でも伸びていく人だ。
理性は普段あってもいい。そうじゃないとただの獣になる。もちろんありすぎは困るが。
だけどやるべき時に理性を吹っ飛ばせる人だけがオリンピックでも勝負事でもビジネスでも勝てる人だ。
目次へ
29 こうあるべきの結末
あんまりにも人に長い間合わせて生きてくると、反比例して人が信じられなくなる。
親の言うことを聞いてやり続けると、それを外れたことに罪の意識、罪悪感を持つ。
自己中で生きる、エゴを満たす行為に抵抗感を感じる。
親の「こうあるべき、こうやるべき」という親のいうとおりに生きてきたら、親に従わないことは罪になる。
しかし、どこか心のなかは空虚だったりするけれど、思考の柔軟性が失われているから、他の考え方があるなんて思いつきもしなくなる。
友達の中でも、「こうあるべき(例えばよく思われなくちゃいけない、誰とでも仲良くやらなくちゃいけない、仲間から外れてはいけないなど)」となると、嫌われたら「もうだめだ、生きていけない」となる。
そういう意味じゃ、自分のことが大事にできない人ほどもろい。
その刷り込まれた観念が長く強かったから、小出しの自己主張もエゴを満たすことも罪の意識でいっぱいになる。
ずるずると老人になるまでやる可能性がある。
楽しいって何? 楽しむにはどうしたら良いの? なんでみんな楽しめるの?
そこまで行くと、自分に生きている価値も見いだせなくなる。
だから、生きづらいなら、どの道、ここで変わらなくちゃいけない。
気づきも大切になる。
何かというと、自分の今の思考はどこから来たものなのか? 他にどんな考え方があるのか? どれほど自分の考え方は固まっていて、柔軟性がなかったのか? その考え方がどれだけ自分にマイナスになってきたのか? なぜ罪の意識を感じてしまうのか?
ただし、これは日常から哲学者のように永遠とやってはいけない。一人でやるともっと暗黒面に陥ってしまう。
その処理や気づきがしやすい状態(脳の回路が開いた状態)でやってこそ、心も脳みそも洗われます。気づきも出てきます。
目次へ
30 悩んだ末の矛盾
面白いことに、良くなりたい気持と逃げた方が楽だという選択肢が悩む人にはある。
それも悩みが重くて、期間が長ければ長いほど、それが生じてくる。
逃避が楽でずっとやってしまうと、良くなりたいけれど良くなりたくない複雑な心境になる。
知恵だと、どちらが得かと考えると、やっぱり今までの逃避が楽だと思ってしまう。
良くなるにはとてもエネルギーが要ることを知っているからだ。
そうするといつまでも前向きな気持にならない。
良くなるための努力も気が乗らない。
私の話を聞いた時、逃避することを考えながら聞いた時と、悩み克服に前向きな時では、全然理解力が違う。
脳が閉じている、閉じていないの差とも言える。
その時の精神状態でも、同じ言葉でも印象が違う。
「このままでもいいじゃないか」と思うならば、何かにチャレンジする必要はないけれど、それでもこのままでは嫌だというとても割り切りがつかない中途半端な状態になる。
割り切りの無さは悩みを強くするものだから、ますます苦しみが強くなる。
実際悩みが長かったり重い人ほど、そういう矛盾した観念にとらわれる。そしてますます悩みが重くなる。
そしてますます良くなるにはパワーが必要になる。それならば逃げたほうが楽・・・・これの繰り返しを続けていく。
残念ながら、悩みは自分のことなだけに、逃避し続けようとしても自分の心からは逃げきれるものではない。
目次へ
31 人の可能性と暗示
当所のプログラムで、麻酔なしで手術できるようになる。
実際に私はそれをしたことがある。まったく痛くなかった。
心頭滅却すれば火もまた涼し、という格言があります。
織田信長軍に寺に火をかけられた甲斐の高僧が発した言葉だそうだが、あんな極限状態にならなくても、訓練でそれに近い状態になれる。
ただ、瞑想や自律訓練法、座禅、催眠をいくらやっても、自己コントロールはなかなかできない。
しかし、うちでは可能です。
麻酔なしで手術できるくらい可能だから、自分を変えられるパワーがある。
普通に「右手が重い、おなかが温かい、自信がある、痛くない・・・」とやっていたんじゃ、一生無理でしょう。
それらを超越したパワーがあるものでやらないと、なかなか人の理性・意識は騙せません。
自分を騙すことほど難しいものはないのだから。
目次へ
32 ジャブとしての会話
会話は長く深くしてはダメ。単語のジャブぐらいでいい。
長く喋ると失敗する。
あれを話そう、何話そう、こうなったらああしよう・・・・
前日から会話の内容を考えると、当日頭が真っ白になる。
好きな人の前では自然体でなくなる。
「おはよう」と言うのも意識して、おかしくなる。
意識が負荷としてかかるから。体も表情もこわばり、さらに酸欠状態になる。
頭が真っ白になるのは当然なこと。
だから、力んでストレートやアッパーをうたず、ジャブを軽くうつように会話すること。
好きになった人はうまくいかない、そうじゃない人と縁がある。人間関係はそんなものだけど理由はちゃんとある。
それを全人間に適用してしまうのが会話が苦手な人や過度にあがってしまう人とも定義できるでしょう。
単語2つ3つレベルを時々言う。しかし、上手に綺麗に話しすぎるとうまくいかない。
ちょっと軽く嫌味や相手をいじること、気兼ねなく冗談を言うと相手から信用される。
初対面時、あまりに気遣ったり、深入りしてくる人を、人間は警戒する。
ちょっと流れるような単語を1つ、2つ投げかけ、絶対入り込まないで、ちょっと相手とは知っているという関係にすることがコツ。
力みがないほうがいい。だからこそ、単語単位の方が力まないで言える。少なくとも会話を構築しようとするよりは。
そこから始めること。
目次へ
33 常識の幻想
常識に縛られすぎればすぎるほど、人は快適に生きられなくなる。
私は常識に縛られていない、だから快適なんだと思っている。
常識に縛られて、もっと常識化しようとし、非常識になったらどうしようと思って生きたら、つねに何かに怯えることになる。
常識をやっていたら間違いはない、この考えこそが間違いだ。
私は「非常識をやっていても、それが定番だ。みんなが非難しても、俺の定番を広めてやるぞ」と思って生きている。
常識なんて赤の他人が自分たちの都合で作ってきたもの。
それを親や教師がとても大切だから、と子供に教え込んだところで、しょせん他人のフンドシだ。
自分が常識と思っていることは本当に常識なのか、刷り込みなのではないか?
他人に振り回されて生きているとぼろぼろになる。
常識なんてものは、時代によってころっと変わってしまう。
それに合わせようともがいていたのでは、受け身に終始し、自分がなくなり憂鬱の毎日になる。
常識を突き抜けて生きないと、本当の喜びは味わえない。
所詮常識の枠内では、その枠の中の狭い感動しかない。
それはむなしさと同義かもしれない。
常識に飼い慣らされてはいけない。
人生はそこから突き抜けてこそだ。
目次へ
34 ハッピーエンド
ハッピーエンドを望む人に、それはやってこない。
ハッピーエンドにならないでいい、という覚悟を持って生きている人にこそやってくる。
なぜか?
人は守りに入ると急激にもろくなるからだ。
すべての行動・思考が防衛と逃避に走り、いかに損をしないか、得をとれるかばかりに執着してしまう。
これがまずい。
その人の脳力と器を萎縮させてしまう。
知らず知らずのうちにそうなってしまう。
スポーツなんかがいい例だ。
いくら守っても守り切れない。
いくら逃げても逃げ切れるものじゃないのが人生だ。
目次へ
35 依怙贔屓をする神
神様や仏様はあんまり人間のことは見ていない。
いる、いないの真偽はともかく、特に悩んでいる人のことをまったく見ていない。
一番助けが必要な人ほど「神も仏もあるものか!」状態だ。
「これだけ私は悩んだんだんだから、救ってほしい」とどんなに願っても願いは届かない。
どんなに品行方正に立派に真面目に道を外れず生きていても、神も仏も無慈悲なほど反応がない。
しかし、エゴをみたしている人間だけは、神様は見ている。
そんな人間は幸せに充実して生きているからだ。
つまり、デキの悪い生き方をしている方が神仏に救われている。
これって矛盾だし、無慈悲なことだ。
一般的に立派なすばらしい生き方や苦しみに耐える生き方をしている人ほど神様は見ていない。
神はいないのか? と嘆くより、神様に見てもらえる生き方をした方がいい。
そちらのほうがツキも出てくる。
自分に満足した人間ほど人を真に気遣える余裕が出てくる。
だから、結果的に立派な生き方ができる。
せっかくの儚い一度だけの命、自分の命を燃えさせて生きている人と、命を削って生きている人、神仏は前者のほうが嬉しいに違いない。
「おお、あいつは自分に満足して生きているな、創ったかいがあった、もっといい思いをさせてやろう」と神仏にあるまじき、依怙贔屓までしてしまう。
まあ、それは冗談だけど、ツキのない人はツキの無さを自分で引き寄せてしまっている。
神を呪うほどに。
でも立ち止まってはもったいない。
ツキが回ってくる生き方や考え方に変えていく、それしかない。
目次へ
36 良くなる違和感
悩みが良くなっていくと、違和感を感じる人がいる。
それは当たり前で、ずっと悩んできたから、悩みから解放された状態が、何かこそばゆくなる。
慣れていないんだから当然のことだから、いちいち違和感を感じたり、そこで立ち止まって考え込む必要もない。
それにいずれなじんでいく。
チェックする必要はない。そのままいっちゃえばいい。
また、せっかくいい状態になったのだから、と途端に守りに入る人がいる。
保守的になったり、消極的受け身になると、また昔の悩みの種が大きく芽を出してしまう。
そういう時こそ、更に立ち止まらずに走り続けないといけない。
目次へ
37 抑圧処理の黄金タイム
脳覚醒トランス状態の後の余韻がある。
この余韻には、悩みの現状や種を思い浮かべると抜け出てくれる「黄金タイム」がある。
普通の意識の流れではないからこそ可能で、その時だけ脳が開いてくれる。
これはその人の脳覚醒トランス状態の深さによって、効果がある時間が違ってくるが、悩みの種を認識すれば心が落ち着いてくる。
執着心が減っていくからだ。
ただし普段の頭で、永遠と悩みの種や精神的現状について格闘してはいけない。
特別な時間だけに有効な方法なので注意して欲しい。
抑圧は解放させていかないと、いつまでも無意識が事あるごとに悪さをしてくる。
ただ抑圧を解放するのも恐怖な人がいる。
かといって、ほったらかしに見ないで抑圧して生きるのも恐怖。
どちらに進むのか、どちらにしても割り切りをつけなければならない。
割り切りができないと、一生悩み、貧乏くじだけを引く人生になる。
その時は、時間は有限であることを考えるといい。
必要以上に焦ることはないが、割り切りには最初パワーが必要になる。
だから「このままぐずぐず悩み続けたいのか? 何のため誰のための人生か?」ということを考えて、決意しなければいけない。
目次へ
38 光る人間になるために
キラリと人間がいる。それは単純な理由だ。
頭がいいとか、容姿が立派ということとは関係ない。
自分を持っている人
恥をかける人
主体的に動いている人
ワガママで行っている人
覚悟を有している人
こういう人が黙っていてもキラリと光っている。
そちらの生き様は大変そうに思えても、実際に生きていて楽だし、自分自身に満足できる。
そして光りたかったら、小細工を一切捨てて、かけひきせず、状況判断もせず、恥なんかくそくらえという気持で主動的で生きていく。
目次へ
39 あがり症のトラウマ強化
あがる人は、苦手な場面で「落ち着いている、落ち着け」と言い聞かせているが、実はあがるための暗示をかけてしまっている。
「大丈夫かな? あがったらどうしよう? 失敗したらおしまいだ」という不安や焦りの感情時に、「落ち着く」自己暗示をかけても、自分の精神的苦境を強く再認識するだけに終わっている。
結果的に、非常に強いマイナス暗示をかけてしまっている。
一番マイナス暗示が浸透しやすい中でやっているから、だからこそあがり症の罠から抜け出せない。
それをずっと繰り返してきているから、場数を踏んでも慣れるどころか、逆にあがりを強化してしまう。
もはや場数や場慣れの問題ではなく、トラウマ強化の場になってしまう。
恐怖と不安がますます増して、焦りの感情ばかりの時に、毎回同じことを繰り返してきたら、いつまでも悪いサイクルから逃れられないのは当然なことだ。
目次へ