1 人をぶっちぎる方法
人に差をつけるやり方
それは簡単で、人がやっていないこと、やらないことをやればいい。
なぜそんな単純なことを皆やらないのか? できないのか?
それは敷居が高いから、と勝手に理性で判断してしまうからだ。
敷居が高いと感じるものに対し、立ち向かう時、パワー、原動力、魂の力、生き様といったものが必要になる。
それは暗示の力や明確な目的意識・目標設定によって可能になる。
本能や情動レベルにその設定を入れ込むことで、得か損かの状況判断も飛び越えたところで行動できるようになる。
知恵で勝負しようとすると、実はやった方が得なんだけど、どうしても「得じゃなかったらどうしよう、失敗したらどうしよう」と怯えを引き出してしまう。
冷静冷徹な理性による状況判断をして、一番マシな結果を出そうとするわけだが、怯えや焦りという冷静冷徹とは全く逆の不安を自分で引き出してしまっている。
だから、人は「本当は得かもしれない、やったほうがいい」と思っていることでも、リスクに怯えて踏み切れない。
だから、踏み切った人と踏み切れないでグダグダしている人では大きな差が出てしまう。
得でも損でもやりきる人間だけが、世の中ではいい思いができる。
しかし、世の中はそういうことを教えたりはしない。
安全安心の道で、損をしない生き方、リスクを避ける生き様を推奨している。
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2 雑念排除のしっぺ返し
勝手に雑念が浮かんできたらどうするか。
排除して、変性意識に入る確率を上げようとすると、どんどん確率が悪くなる。
そのまま雑念の海の中でやるしかない。
俺が呼吸や瞑想をやっている間、雑念が入るのはずっと続くものだから、それでもいいぞ、と。
排除しようとすることなら誰だってできる。そして誰もが失敗している。
しかし、雑念の世界に来て、呼吸法をさせてもらっているぞ、という気持ちでやると、いつしか雑念が消えている。
ところが、これを消そうとすると何十年やっても雑念が入ってくる。
雑念が消えないどころか、ますます増幅する。
こんなはずでは、昔は少なかったのに、と後悔して、いろいろ手をつくしてもうまくいかない。
雑念が勝手に襲ってきてなるのではなく、自分で知らず知らず引き寄せてしまっているんだ。
そんな思考しかしていない。
私の場合、「消えなくてもいい、その中でやる」という覚悟をもって、何でもやるようにしている。
それが結果的に雑念を排除できる一番の近道だ。
急がば回れ、損して得を取れ、は真理をついた格言だ。
頭のいい人は「あの人は雑念が消えたと言っていたのに、そのままやっていたら俺の場合消えないぞ、どこが悪い? 何とか修正しなくちゃやばい、どうする?」と思ってしまう。
結局、バカに成りきれない。
少しでも効率よくうまくやってやるぞというとらわれに引っぱられて、理性を捨てられない。
雑念の中でやるというリスクをとらないで、目の前の得を少しでも取ろうとしてしまう。
だが、効率の良い見返りを求めると、すべての歯車がかみ合わなくなる。
あらゆる想念がすべて雑念化して邪魔になる。
呼吸法でも人生でも、すべてリスクを取ってやる人間に、神様はちゃんと微笑みかけてくれる。
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3 精神的危機は絶好の機会
人間なんてもろいもので、はまるとどこまでもはまっていく。
一見、強そうな人間も、実はある量の負荷がかかると、もろくも崩れ去ってしまう。
だからこそ、知ってか知らずか強がっていたりする。
これは、どんなに偉くても関係ない。
だから、誰でも悩むんだけれど、悩みにはまった時の対処は、だからこそ重要だ。
その時に真価が問われる。
絶好調なときになんでもできるのは当たり前。
どんなクズでもカスでもだ。
精神的危機の時の対処法を必ず身に着けていかなくては、何があっても、今後の人生で同じまずい対処法を繰り返す。
しかし、ピンチはチャンスだ。
悩んでしまったのなら、逆に学ぶ絶好の機会でもある。
順調にいった人が精神的挫折によりボロボロになってしまうのは、順調であるが故に、それを学ぶチャンスがなかったから。
いま壁に直面している人は、神様か誰かが、今悩まないと将来悩んだ時に取り返しがつかなくなるから、いま悩ませていると思おう。
悩みを乗り越えた人は、何も経験していない人に比べ、とても人間の幅と深さが大きくなっている。
危機は強くなる絶好のチャンスだ。
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4 自信とはかくあるべし
自信ほど自分に安定感と力強さとさらなる活動力を与えてくれるものはない。
しかし、自信は願っても決して獲得できない。
自信がある人と、自信がない人は、時間が経てば経つほど、結果に大きな隔たりができる。残酷なほどに。
なぜなら、自信はさらなる自信を磁石のように拾い上げてくれる。
一方、自信喪失は、さらなる自信喪失を呼び込む。
何もいい経験がない人が自信を持っている事自体おかしいなこと。
だから、どんなに「自信があるんだ!」と言い聞かせても、一番自分が信用ならないのだから、自信には繋がらない。
自信が身につくのは、「失敗してもやってやるぞ!」と行動することによって、大きな結果につながるもの。
失敗して負傷したとしても、勇気を持ってチャレンジしたこと自体価値がある。
それが自信なんだ。
「お、行けるぞ」「考えていたほど大したことなかったな」と思えれば、もっと大きな成果を上げられる。
一生の栄養になる。それは消えることはない。
それが積み重なっていくと、実態のない自信まで獲得できる。
自信がない人の一番の欠点は、自信がないからやらない、ということだ。
これ以上傷つくのが怖い、ということ。
自信を持ったらやると言うけれど、一生自信は得られない。
自信がなくても、やった人だけがいい思いを出来るように、人の心理面と脳みそは構築されている。
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5 思考の停滞 灰は黒に
毎日淀んだ同じ空気を吸い、同じ灰色だけを見続けることを繰り返す。
それを続けると、ずっとドス黒い重たい思考に支配される。
「あのとき、ああだった、こうだった」「こうすりゃよかった」「なぜああしなかったんだ」「私はダメだ」と反芻して、グルグルグルグル同じ思考にとらわれる。
そんなんじゃ割り切りはつかない。
どんなに思考を積み重ねても、暗黒面に支配されてしまうのがオチ。
どんなに抜けだそうともがいても、抑うつ状態にやられてしまうのは当たり前。
割り切りがつく人は、割り切る思考ができるのではなく、それが可能な行動をしている。
見る色が変わる動きをパパッとしている。
それをやると頭が執着対象から外れてくれる。
だから、ますます変化のスピードが増して、脳は停滞はしなくなるし、絶好調になる
いくら職場でヘトヘトになって疲れたからと言って、同じ淀んだ空気の中で嵐が過ぎ去るのを待っていたら、もっと心は停滞しつづける。
同位置にとどまるどころか、地滑り的に精神的に後退し続ける人生になる。
寝るだけが趣味、ならまだいい方で、不眠症になったら、安らぐところもなくなる。
なんで割り切れないのか? それでまたクヨクヨと思考をやり続けて悩むよりも、停滞しない生活リズムをやっていかなければいけない。
悩みにハマっている時は、悩むことしかやっていないことに真に気づく、これが重要だ。
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6 無意識の抵抗
弱いゆっくりの呼吸法をやると普段ストレスを抱えながら生活している人ほど、眠りに誘われる(不眠症以外)。
勉強嫌いな子供は遊びでエネルギーを使っても疲れないけれど、勉強になると途端に眠気を覚える。
これは無意識の抵抗だ。
弱い呼吸法も無意識の抵抗が起こる。それで睡眠に逃げようとする。
面倒くさいことをやりたくないから。
だから、目覚ましをかけてでも起きてやる、また寝てしまう、それでも起きてやる、を繰り返すと、その抵抗感が止まってくる
面倒くさい、寝てしまおう、という気持を乗り越えてやると、寝なくてももっとくつろげる極上の世界に入ってくれる。
一見無駄に思えることでもやってみること、その積み重ねだけが、自分の心を変えることができる。
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7 こんなはずだった
何か苦境に立たされた時、「こんなはずではなかった」と思うけれど、失礼な言い方になるけど、実は「こんなはずだった」から、今現在の崖っぷちに立たされてしまった、と私は思う。
それに気づいて受け入れる、つまり「こうなって当たり前だった、ならないほうが逆におかしいくらいだ。私と同じ経験をしてきたら、誰だってそうなるよな」と思い描けると、自己肯定が初めて出来るようになる。
少なくとも自己否定感はおさまってくる。
なぜなら理由がちゃんと存在し、誰でもなるものだという安心感が脳の混乱をおさめてくれるから。
脳覚醒トランス状態とその後の余韻における『気づき』、つまり脳が特殊な状態になって、理性が少なく感覚が様々な面で鋭敏でいながら深まっていたほうが、普段気づくことよりも、心底からの発見につながり、それが波及して別の気づきに導いてくれる。
決して見えなかったことに気づいたり、一種の小さな悟りに近いレベルまで発見できることがある。
これは認知の歪みを気づかせる認知療法的アプローチよりも、無意識レベルで可能になるため、圧倒的な効果が上がる。
癖がついてくると、つまり脳の条件付けができてくると、日常でも様々な気づきが発生し、その数だけ心も余裕が出てくるし洗われていく。
逆に悩みの受け入れは、そうしないと心は受け入れてくれない。
感情的に必ず拒否するからだ。
それをさらに何歩も飛び越えた深いところで気づくことが、悩みの受け入れ、ひいては悩みの解決への道筋をたどることになる。
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8 強迫観念の処理方法
強迫観念に関しては、悩みのルーツ分析・整理作業をやっても、楽にはなりません。
普通は、原因があるから今があることが、心から気づくと楽になっていく脳の性質がありますが、強迫観念が起こる脳の構図は特殊なものです。
ではどうしたら良いかというと、脳覚醒トランス状態の後の強い余韻の後に、強迫観念の最悪の場面集だけを思い浮かべることが大事になってきます。
トランスの余韻以外で、強迫観念に立ち向かってはだめで、その条件と時間だけで限定してやること。
普段からそれをやっていたらますます強迫観念がひどくなるので、その場だけでやってください。
他の症状の方で、悩みの種とルーツがどうしても思い浮かばない人は、最悪場面集からやって、潜在意識から抑圧負荷を抜いていきます。
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9 脳理論と実体感の差
脳の奥で働いているのが潜在意識、 無意識と呼ばれるもの。
脳の中の八割か九割、かなり多くの部分が潜在意識によって動かされている。
普段の思考や行動は一割、二割の顕在意識で、行動や思考、意志の決定の殆どは、実は潜在意識によって決定づけられている、と言われている。
しかし、そう書く人の中で、いったいどれだけの人が、神秘的とも形容される潜在意識・無意識的体験をしているのか?
世の中には自律訓練法や各瞑想法があるが、どれもすばらしいものとはいえ、自律訓練法がうまくいったとか、瞑想で何かいつもと違う意識の変容状態を経験したというレベルでは、とてもじゃないけれど、無意識的体験をしているとは言いがたい。
そのレベルは、「あ、無意識ってあるな、莫大な潜在意識の部分が眠っているな、脳の可能性はかなり深いな」と認識できるぐらいだ。
それに到達するまでも大変だし、なった事自体大きな価値があるけれど、それで実際に大きく変われるかというと難しいところもある。
そして、世の中にありふれている方法はこれぐらいしかないのが現状とも言える。
世界中で、多くの人が唱えるように、脳には可能性がまだまだ限りなくある。
しかし、理論倒れに終わっていたのではもったいない。
その中でも、当所の心理脳内プログラムは、世界のどこよりも脳の一番の本質にいるといっていいと思います。
これは従来の発想ではなく、独自に研究開発してきたもので、日本はもちろん世界のどこにもないからです。
脳はありきたりの惰性を嫌いますが、従来の脳深化法・瞑想法では、多くが過去をなぞっているに過ぎなく、いくぶん惰性化しています。
なので、加速度・爆発力がいずれ頭打ちになって、瞑想状態の深化が止まってしまうのです。
しかし、当所の脳内プログラムでは、やればやるほど毎回の超変性意識状態が更新していきます。
そこではじめて、脳には限界がなく、莫大な可能性が眠っていると、まさに実感できることでしょう。
理論はしょせん理論です。
どんな人間でも偉そうに説明できるもので、当所はあくまで「実際」「生の体感」「現実」で勝負しています。
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10 ベースからのコミュニケーション術
ありきたりの会話では、ありきたりの結果しか生まない。
何か心にはじけるものがどこにもないからだ。
ビジネスシーンや恋愛などの場において、うまくいかない人は、人と差別化がなされていないことが大きい。
良い人だけどちょっと・・・となる。
人と違うからこそ、印象に残る。
その人の個性や自信、生き様と結びつくと、ものすごい技術を超えた技術を獲得したも同然だ。
話の技術をいくら磨いても、本で書いてあることなら、これもやっぱりありきたり。
誰もがやっているし、本番になるとどこかに吹っ飛ぶか、うまく使いこなせない。
人は自分のことに忙しいから、他人の話なんかにいちいち構っていられない。
しかし、ひとたび、心を動かす接し方をしたら、必ず脳に焼き付けられる。
人間の心は複雑怪奇で奥深そうだが、実に単純だ。
当所で教える会話術は、ありきたりの会話・話し方の技術じゃなくて、話を聞いてくれるような人間になるベースを作るプログラムでもある。
今までいろいろな努力とエネルギーを費やしてきたけれど、テクニックはテクニックにすぎない。
本質から一緒に変えていきますが、テクニックじゃなんにも前に進まないことを気づくことが大事になってきます。
小手先のテクニックよりも、情動・本能・生き様から構築した会話(もっといえば会話に頼らなくなる)を身につけることができたら、どのシーンでも活躍できることでしょう。
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11 自分の心はそんな甘くはない
人に変に思われたら? 人に嫌な印象与えたら? 自分がこれをやったら相手はどう思うだろうか?
そういう想像ばっかりすると、想像の世界だけで飛躍してどうにもならなくなる。
その思考の位置を変えないで、その世界だけで行くと、ずるずると心が飲まれて、おかしくなる。
そうなると、どんなにその狭い空間でもがいても、自分の首を絞めるだけになる。
考え方のすり替えをしないと、その泥沼地獄から抜け出せない。
逆に言えば、それができたら、どれだけ人生が楽になるか、ということ。
恥と緊張なんてものは、本人が「俺はこうしたい!」という「何にも勝ってそれだ!」という大義名分を積み重ねていくと薄れる。
もっと言うと、恥も緊張も楽しめるようになる。
そんなものに執着しなくなる。
楽になるための努力(=いかに変に思われないか、無難にやっていくか)をずっとやっていたんじゃ、いつまでも脱出できない。
人生なんてあっという間だし、怯えて生きても一回、覚悟して生きても一回。
まして、こういう時代で、みんな甘っちょろく生きている。
覚悟や建設的信念を誰もが持ちたいと思っているし、そういう人間を政財界などに我々は求めている。
しかし、自分となるとそれができなくなっている。
そんなに気張らないで安心してのんびり暮らしたい、と思う。
だけど、覚悟や生き様を持った人じゃないと、その境地に達しない。
逃げたり守ったりして、安逸安楽な生き方ができただろうか。いやできてこなかったはず。
人の心、いや自分の心はそんなに甘くはできていない、残念ながら。
せっかくの限りある人生なんだから、自分がそうならなくて、何のために生まれてきたのか。
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12 不安と自信の心理
本物の安心感と自信は、不安と緊張の中にこそある。
怖いことに、安全を求める心にはやってこない。
受け身になると人は守りと逃避に入る。
それが一番まずい。
逃げて逃げて、守って守って、安楽が来ることを願うけれど、一瞬落ち着くことがあっても、真の心の安楽はやってこない。
自信もそうで、いくら欲しいと恋焦がれたところで、決して身につかない。
リスクと冒険の中にしか、本物の自信はやってこない。
トラブルの中を走らなくちゃ、たくましさは生まれてこない。
それに気づくことで、はじめてわかることがある。
自分が思っていたトラブルって、それほどのことじゃなかったんだな、と。
そうなると、急速に不安や恐怖がなくなり、強くなっていく脳の思考回路が出来上がってくれる。
プラス思考や割り切りは、そうやって生まれていくものなんだ。
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13 中庸と脳の枠
自己主張は小出しに普段からしていこう。
それをしていくと、いざというときの自己主張が楽にできるようになる。
追い詰められた上での暴発とは違う。
つねに小出しに自己主張をしていく練習をすること。
それは主体性を持てる訓練にもなる。
追い詰められてしまっての「自己主張」はただの錯乱・暴発で、何の生産性も生まれない。
それは自己主張ではないし、第一主体性が全くない。
ただの核爆発で、自分にも周りにも放射能を撒き散らすだけ。
脳や心に余裕が無い人は、どうしても0か100かの行動しか取れない人が多い。
生か死か、勝利か敗北か、栄光か破滅か、それぐらいの緊張状態で何事もやってしまう。
バランス感覚がなくなっているからだし、中庸に至れない。
ひとえに脳の枠がないからに他ならない。
たしかにエゴを満たすこと、自己主張をすることは大事だ。
しかし、こずるく知恵や小細工を使ってエゴを満たすのとは違う。
いわゆるスネ夫になると、自分に信頼が持てないし、当然周囲からも低く捉えられてしまう。
爆発して鬱憤を吐き出すこととも違う。
錯乱したら、ギクシャクするどころではなくなる。
ここで大事なことは、エゴや自己主張という言葉ひとつとっても、受け止める人にとって大きな解釈の差が出てしまう、ということ。
歪んで受け止める人は、それだけの枠しかない状態で生きてきたからだ。
だから、自分の思考や受け止め方に余裕があるのか、枠があるのかどうか知ることが大事になる。
今はどうなのか、過去はどうだったか、それでどれだけ損をしてきたか、このまま行っても状況は変わるのだろうか? と。
その余裕の無さは、親や周囲の教育だったり悪意だったり、固定観念だったり、悩んだ末のダメージだったり、いろいろと要因がある。
とはいえ、その「気づき」は平素日常にはなかなかやってこない。
しょせん頭の世界だし、そこまで取り組む余裕もきっかけもないからだ。
だからこそ、脳覚醒トランス状態の余韻のある時間だけ人生を思い浮かべることによって、たくさんの気づきに遭遇していく。
それが脳の枠を広げて、余裕のある思考や認知ができることにつながっていく。
気づきがあればあるほど、その理解が深えれば深いほど、いままでの私の話も今までたくさん読み漁ってきた本の為になる言葉も、はじめて真の理解につながっていく。
悩みはそうやって解消していくことが多い。
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14 中途半端な頭の良さ
頭が良い人が悩み、頭が悪い人は悩まなかったりする。
もう一つ言うと、小ずるいのは悩みを引き寄せやすく、大ずるい人間は悩まない。
つまり中途半端に頭がいいと悩む。
小細工する頭が働くからだ。
安全に安心にケガをしないで得を取ろうとしてしまう。
自動的に、器量を自分で制限してしまう。
そういう人に足りないのは、バカにいつでもなれる頭や確固とした生き様を持てば、頭の良さが全開できるし、それだけ器量が大きくなる。
頭のいい人なら世の中に沢山いる。
「頭がいい」それは長所だけど、それに頼って勝負しようとすると、いつの間にか自分の可能性を逆に制限してしまう。
世の中を頭の良さだけで渡っていけるものでもない。
頭の良さを捨てられる人が、真の意味で頭の切れるすごい人間になれる。
頭の良い人に足りないものは何なのだろう?
その答えに気づいたら、今よりももっと大きなたくましい人間になるはずです。
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15 脳のプログラミング言語
脳の本質は不確かだ。
そんなものに、いくら脳の表面を使って理性で訴えかけても、脳は説得が効かない。
つまり馬の耳に念仏をとらえているわけだ。
脳の本質のプログラミング言語は、理性と知恵で構築された言語と違う。
脳に強く訴えかける(自分を変える)には、こちらの気持ちも、脳と同じ非理性的な状態・感覚になっていないといけない。
自分を変えるのは自分との対話だ。
他者と対話したいならば、理性と知恵を使って可能だ(相手の心に響かないものになるが)。
しかし、自分との真の対話は、使う言語を間違うと、すべてが空虚な結果に終わる。
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16 父と子、母と子
性格は親から知らず知らず受け継いでいることが多い。
良くも悪くもだけど、それが悪い部分ならば、とても生きづらくなってしまう。
親の性格のあそこが嫌だ、嫌いだと思っていても、いつのまにか自分がそうなっていて、ギョッとしたりする。
これは、それほどまでに幼少期からの積み重ねの威力がすごいということだ。
ということは、父親、母親はその父母から影響を受けてきたし、逆に自分の性格が、子供にも影響を与えてしまうということだ。
良い影響なら大歓迎だけど、マイナスや弱点を拾ってしまった場合、子供ものびのびと生きにくい性格になってしまう。
したたかに親の反面教師ができる子供なら、たくましく生きていけるけれど、純粋だったりした場合、もろに影響が出てしまう。
小さい頃から、『その世界』しか知らないわけだから、当然子育ても『その世界』でやってしまう。
『○○家の呪い』じゃないけれど、たしかに心理面のマイナス要因は子孫に伝播しやすい。
だから、子供のためにも、自分自身の人生のためにも、今ここで、その先祖代々の悪循環を断ち切った方がいい。
もしくは、子供、あるいは自分が、客観性を持って、純粋にしたたかに生きるすべを身につける。
「ああ、あの親だったら、私もこうなるよな。変なものをコピーしてしまうのも無理は無い」と深い潜在意識レベルで気づきができると、その客観性を獲得できる。
その客観性が強かさ(したたかさ)につながっていく。つまり強くなれる。
そこの気づきがないまま、ずるずると親のコピーをし続けていたら、子供にさらなるしわ寄せが出てしまう。
また子供が悪影響を被らないために、親が演技している場合がある。
しかし、子供は親のことを敏感に察知してしまい、結局コピーしてしまう。
100%演じ切ることは不可能だからだ。
完璧に演技しようと生きていること自体、精神的にボロボロになる原因でもある。
どちらにしても先行きは明るくない。
付け焼刃でも表面的対策ではなく、子供が幸せになるためにも、親自身がその代で変わらなくちゃいけない。
自分を変えようとすることは、とてもエネルギーが要ることだけど、本人だけの問題じゃない場合も多々あります。
だから、そのモチベーションにしてください。
親が全部悪いんだ、と文句を並べても、今生きているのは自分です。
これから先親よりも生きていくのが子供です。
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17 感情を動かす会話
褒めて褒めて、四回ぐらい褒めたら、一回だけけなす。
会話が弾むコツ。
三ついいことを言って、一つ変なこと、いじる言葉を言えばいい。
文章になるぐらい長い会話をしなくていい。
逆にしてはダメだ。
単語だけでおさめることが、対人関係がうまくいくコツ。
ただし霊界から出しているかのような声ではダメ。
そこはカラッと明るくが一番いい。
最初からはそれはうまくいかない。
毎日毎日が訓練だから、それをやってほしい。
それは最初は困難だけど、難しいことではない。
長い文章で話そうとするから重くなる、流れが止まる。
そして沈黙になったら、頭が真っ白になってアップアップになる。
会話で処理せず、単語で相手の感覚感情を揺り動かす。
さらっと嫌みを言う。いじる言葉を言う。
それで相手の感情が動く。
もし相手をどうにかしたいなら、相手の心を動かさないと何も始まらない。
顔を見たら、カラッと明るく挨拶一つだけでいい。それ以上はしない。
慣れてきたら、嫌み一個いえば、相手との距離感も近づく。
人は、出来がいいもので全部くるまれると、逆にその人を信用信頼できなくなる。
キレイにうまく流して、信頼を勝ち得ようと思う『デキの良い人』ほど外れくじを引く羽目になる。
人間は心のどこかで感情の交流、揺れ動きを求めている。
それをさせてくれる、”イカれていて”自信のある人に惹きつけられる。
キレイにうまくやろう、嫌われないようにしよう、気に入られようという人に警戒心を抱く。
それらが、自分の脳も相手の心も、すべての動きを止める。
気に入られたい、得したいという人間には、人は冷たい。
逆にどうでもいい、それがどうした、と思っている人間に、人の感情は惹きつけられる。
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18 努力の垂れ流しと真の努力
何に必死になるか? の話。
大きな弱点を抱えていたり、高い壁を超えられない人は、文字通り必死で生きています。
そんな人が「私は訓練を必死にやってます!」と言っても、必死の方向性が違っている場合があります。
頑張る行為、これはとても素晴らしいこと。
しかし、どの方向に頑張るかが大事。
頑張るだけなら、寒い中空き缶を拾い集めているホームレスの人だってやっています。
『頑張る力、必死さ』このエネルギーが浪費に終わってきたのならば、その方向で頑張っても自分をすり減らすだけです。
生きていて楽しくなくなり、抑うつ感、無力感、焦燥感、憎悪感、そして無感動、自分喪失へとつながってしまう。
訓練のことで言えば、雑念を排除することだけに必死になっていたら、それは本当の必死さではありません。
頑張っているけれど、実は頑張れていない、当ての外れたことばかりやっていることが、罠から抜けられない状態の人はよくあります。
見返りを求めてやっていたのに、出てきたのは、焦りだけ。
「でも必死に努力してやっているんですよ!」と言います。
たしかに必死さは認めますが、助かるための努力は誰もがやります。
やらざるを得ないといったほうがいいでしょう。
それこそ必死でやるしかない。
でも、それに見合った成果は上がらない、ヘタしたらさらに状況を悪くするのが、メンタル・トラブルの難しいところです。
もし本当の必死や努力を、ある一点で使えた時、ものすごい劇的な効果が得られます。
知恵で処理しようとしないこと、雑念・不安があっても、無駄になってもいいからやるという覚悟だけが、その答えになるでしょう。
それまで、ものすごく努力をして悩みを打ち消そうと頑張ってきた。
それはどんな成功者も及ばないほど、すごい努力だったことでしょう。
悩んでもがいている人のエネルギーを発電したら、地球上に原子力発電はまったくいらなくなるほどです。
しかし、いつまでも変わらない、悪化してしまうのは、努力とエネルギーの注入する方向が全く違っていただけ。
本当の努力は、努力感なき努力が理想です。
言い方を変えれば馬鹿になった時、狂いが感情に注ぎ込まれた時の努力です。
すぐに答えを求めようと知恵を振り絞り、状況判断して、少しでも効率的に、最高の結果を今すぐ求めようとすると、すぐに自分自身からしっぺ返しを喰らいます。
「答えなんかでなくてもいい、それがどうした、俺はただこれをやるだけだ」
この気持ちになった人は、答えがすぐに向こうからいつのまにか近づいていきます。
助かるための努力と、それを捨ててやる努力、この差は圧倒的な差となって出てくるでしょう。
後者は覚悟が備わっています。
これがすべての不可能を可能にします。
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19 プラス思考とリスク
私は、割り切りがいいとよく言われるし、自分でもそう思います。
なぜ割り切りがすぐできるかというと、「リスクを背負ってもいい、あってもなくても関係ない」と思って動いているから。
リスクを背負う覚悟を持って歩み出すと、都合のいい解釈が何でもできるようになる。
なるべくリスクを背負わないように生きると、なんでもないリスクですら、強烈なリスクとなって気持ちを襲ってくる。
覚悟って、その意味でも非常に大きい。
リスクを背負ってもいいという覚悟があると、恐怖感も不安感も目減りしていくんだ。
普通は、リスクはないほうがいい、あったら避けたほうがいいと思う。
それが逆にリスクを増幅させる思考だけど、自分の人生はリスクありきと考えると、リスクそのものの価値が無くなっていく。
いつの時期でも人生においてリスクや不安や危機はあるのだから、避けたくても避けられないのが現状です。
安全ばっかり求めたって、どっちみちコンビニに車がつっこんでくるかもしれないし、隕石の衝撃波でふっとばされるかもしれない。
そうなると、死ぬまで、いや死んだとしても「いままで俺の人生は何だったんだ、何でコンビニで立ち読みしていたんだ・・・」となってしまう。
そこで精神的な危機に陥るより、「そんなもの生きてりゃ、あって当たり前なんだ、起きたからといってそれが何なんだ」と思うと、危機に直面したとしても、乗り越えられる危機でしかなくなる。
ということは、リスクではなくなっている。
自分の都合のいい解釈も割り切る力も、リスクへの捉え方で、まず決まるといっていい。
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20 悩むソフトの更新の繰り返し
なぜ悩むのか?
あたり前だけど、悩むソフトを使うから悩む。
そのソフトを使いたくて使っているわけじゃないし、勝手に頭の中にインストールされてしまったけれど、そのソフトを書き換えない限り、一生悩み続けることになる。
案外、同じ悩むソフトを使い続けていることにも気づかないし、頭のなかでコピーを繰り返し、悩むソフトのバージョンアップをし続けることになる。
ソフトを変えるためには、逃げて楽になるためのソフトではダメ。
リスクを背負って冒険をするソフトを頭に入れ込む。
自分の過去において、今まで使ってきたソフトはどうだったのか、今使っているアプリケーションはどんなものか分析して整理してみる。
常に同じソフトしか使っていなかった、と気づけば、それだけ変わるための動機付けになる。
しかし、常に同じ事しか悩みに対して繰り返していなかったことに気づかないと、10年先も、20年先も同じソフトを使い続けることになるだろう。
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21 理性に感動させる力はない
生きる上で理性は必要だけど、あまりに勝ると個性が無くなる。
理性には、人に感動も与える力もないし、自分も感動させられない。
度が過ぎると無個性になり、感情も沸き立たなくなる。
たしかに人と波風立たなくするために必要かもしれないが、自分を押し殺してまで使うものでもない。
その人が光るのは、その人の個性や感情、感覚、エゴが出た時だ。
人が人に感動するのは、理性や知恵のひけらかしではなく、その人の個性がポッと花開いた時だ。
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22 パニック障害克服には脳の緩みから
パニック障害の人は、いつも体が極度に硬い。
それがパニックをさらに誘発・増幅させて、どうしようもない恐慌状態にさせてしまうのだけど、それへの恐怖と予期不安が、ますます日常から体をガチガチにしてしまう。
そこまでいくと、普通の人なら幸せな、くつろぐことへの恐怖が出てしまい、楽になりたいけど自分を開放する恐怖も強い。
パニックも強ければ、体の力を抜くことも怖い。
何をやっても恐怖、不安になってしまう。
防衛本能が自分を破滅させてしまうぐらいに、心身のバランスが崩れてしまう。
そんなパニック障害の人が当心理・脳内プログラムを受ける時、体の力を抜くことをやる。
脳が急激に硬くなる感覚しか、しばらく味わっていないから、脳に強烈な緩みの感覚を味あわせてやる必要がある。
それも怖いと思うのだけど、ビクビクしながらでもいいからやっていくと、数回重ねて行くごとに、防衛本能の壁を突破してくれる。
そのあとは、急激に楽になる。
その条件付けがついてくると、パニックが起きにくくなるし、万が一起きても、これ以上悪化しないという脳の保証があれば、パニックがすぐ止まる。
その経験が自分への体調への自信とつながる。
それに、万が一パニックが起きそうになっても、私はすぐにピタッと止める自信があるから任せてほしい。
人間の脳はどんな恐慌状態に陥っても、ある回路だけは開いていて、本当に自信のある声にだけは耳を傾けてくれる。
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23 キラリと光るために
光りたかったら、定番をやったらダメ。
ずれた発想、方向をずらし、誰も考えない視点から、ものごとを考えることが必要。
人の価値は、定番をやったことではなく、定番を壊してやったことにある。
常識じゃないからこそ、キラリと光る。
人は魅せられる。
どうせ誰もがいつか死ぬ、なら、何か人と違うことをやらなくちゃどうする、という話だ。
大きなことを成し遂げる人は、定番の発想を絶対しない。
独自の発想とシミュレーションを描いている。
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24 悩むことしかしていない
悩みにはまっている人は、もがいてもがいて、たくさんの対策をとっているようだけど、実は一つのことだけしかやっていない。
はまることだけしかやっていない。
はまる考えをして、はまる行動をし、はまるための後悔しかしていない。
そして何年たっても同じことの繰り返しをしてしまっている。
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25 会話の流れを塞き止める原因
会話は知恵を使うと流れがおかしくなる。
作戦を寝るとガチガチになる。
気を使うと相手に気を使わせる。
会話をしようとすると会話にならない。
さらに、会話というものは、恋愛でも交渉でもそうだけど、相手の感情を揺れ動かさないといけない。
知恵を使って、作戦を練って、こういう話をしよう、というシミュレーションをしたところで、逆に相手の心は冷えていくだけ。
人は無意識的に意図的なものを排除する性質がある。
一生懸命やればやるほど、相手の反応は芳しくなくなる。
それを敏感に察して、あたふたして、うまくいかなくなる。
だけど、もっともっと本に書かれてあるテクニックを磨けばうまくいくと思っている。
なぜ努力をしても会話がうまくいかないのか、こういう流れに入りやすいからなんだ。
その流れをはっきりと知らないと、決して会話力は上達はしない。
そんな会話術を磨いて磨いて磨きぬいたとしても、ただの自己満足ひとりよがりのマスターベーション会話術になってしまう。
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26 脳を動かすプログラミング言語
脳は不確か、不明瞭で、とらえどころがない。
それにいくら理性で訴えかけても、脳は実は理性的ではない。
こちらの訴えに耳を傾けてくれない。
理性を生み出しているのも脳だけど、それよりもはるかに重要な優先順位の高いものがある。
いわば、非理性的なものに強く耳を傾けてくれるんだ。
脳に強く訴えかけるには、こちらの気持ちも、脳と同じ非理性的な状態、感覚になっていないといけない。
同じベースに立って始めて、脳には、対話・訴えかけが可能になる。
それ以外の方法で言い聞かせることは、ありそうだけどないんだ。
我々が普通の意識の中で、普段から使っている言語は、脳を動かせる言語とはまったく種類が違う。
パソコンでいうプログラミング言語が違うんだ。
ただし、特殊な強い変性意識状態の時、脳の回路が開いて、ピッとスイッチが入る時がある。
そのときならば、言葉や思いなどの訴えかけは可能になる。
脳の扉を開くことに、とても自信を持っています。
スイッチが入ってはじめて脳は明瞭になり、単純になり、とらえどころが出てくるのです。
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27 これさえなければ・・・
「悩みがなければ自由なのに、何でもできるのに・・・」
そればっかりとらわれると、一層自由じゃなくなり、何にもできなくなる。
「悩みがあってもなくてもどうだっていい」
「とにかくやるぞ!」
この気持こそが、自分からもしがらみからも悩みからも自由になる。
あらゆるものから解放される。
自分自身の可能性が大きく広がっていく。
憧れじゃ何にもできない。
何もできないから憧れる。
しまいには、それすら疲れ果てて、すべてを諦める。
『これさえなければ・・・・』な人生よりも『だから何なんだ、どうでもいい』と思える人間になろう。
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28 自己否定から自己肯定感へ
自己肯定できるようになると、悩みも薄らぐ。
とはいえ、自己否定せざるを得ない人が、自己肯定感は持てない。
いきなりは至難の業。
まずは自己否定感を減らしていくことが、自己肯定感と自信獲得への道になる。
「今までの不安の繰り返しを続けていれば、それじゃあ、今の苦境に陥って当たり前」と思えるだけでも楽になる。
私以外の人間でも、私と同じ立場・状況になったら、誰でも悩むものなんだから、と。
つまり、自分だけがおかしいから、情けないから、ダメだから、そうなったわけじゃない、ということだ。
「なぜ、どうして、私だけ・・・、これさえなければ・・・」は、悩みにどんどん呑みこまれてしまう呪文だ。
どんな人間でも、同じ悩むルーツ(環境・人間関係・トラウマなど)をもったとしたら、今の私と同じになると芯から思えると、自己否定感が弱まってくれる。
できれば、それをもっと深い意識のレベルでやっていったほうがいい。
そういう『気づき』は深いところでやればやるほど、心はますます浄化されていく。
そして、次の前向きに歩むためのステップになってくれる。
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29 執着の悪連鎖
悩みはある対象への執着から起こる。
その悩みに対して、脳が「どうでもいい」状態に持っていくことが、プログラムの大きな柱になる。
悩みは「これさえなければ! これさえなければ・・・」とますます自分で悩みの執着を強めてしまう。
そしてどうにもならなくなる。
簡単に悩みが悪化するのも、抜け出せなくなるのも執着が強いからだ。
悩みがあるから当然執着し、執着するからさらに取り憑かれる。
その永遠の繰り返しをしてしまうのが恐ろしいところだ。
悪循環どころか、加速度的に執着の度合いが肥大化していく。
意識は怖い。その持っていき方で人生が良くも悪くもガラッと変わる。
希望か絶望か、夢に執着するのか、悩みだけに執着するのか、はっきりわかれる。
だいたい悩みが軽くなっていく人は、自分の悩んでいることへの執着が減っていっている。
逆に、夢や目標に対してのいい執着をつくることができるようになる。
執着の外し方は頭で考えても、やればやるほど執着を強める結果になるため、どうやっていくかが問題になる。
過去のトラウマや、悩みに至るルーツと悩みの種、そして最悪の場面集を思い浮かべて、脳覚醒トランス状態で負荷を抜いていくことで、どうでもいい状態になって行く。
執着が薄らいでいくことが、心の負担、脳の混乱をおさめて、心の枠、いわば余裕を生み出していく。
冷静さと客観性を取り戻せるようになっていき、頭で考えても不可能なレベルの貴重な気づきを獲得できる。
それによりはじめて、プラスに自分を持っていける暗示が脳深くに浸透するし、持続していく。
「これさえなければ!」という思考は非常にまずいものだけど、どんな人間もまず例外なくやってしまう。
その時点で悩みを強化するラインに乗ってしまう。
執着が強ければ強いほど、無意識レベルに自分でマイナス暗示を入れ込んでしまう。
そしてエンドレスでマイナス暗示効果、執着効果を強化してしまい、どうにもならなくなる。
これが悩みのドツボにはまって最悪になるパターンだ。
悪循環をたちきるには、それを上回る強烈な感覚体験、いわば脳覚醒トランス体験、脳の原始的情動的、本能的体感のもとで、ルーツ処理をして執着を減らしていくしかない。
意識と理性と全精力を悩み克服に費やしても、自力では悪化させるか、うまく行っても一時しのぎでおわる。
意識がかかればかかるほど、悩みの対象に対して執着を強めてしまうからだ。
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30 脆いからどうした?
脆いからって何なんだ!
脆くてもやってやる! この気持が大事。
決して根性論じゃない。
悩みを克服するためにいつか必ず必要となる考え方だ。
脆くなくなってからやるんだ、強くなってからやる、それでは一生脆いままだ。
そういう人は、自分の限度を超える負荷がちょっとあっただけで、すぐ脆くなってボロボロになる。
脆くてもなんでもやっちゃうぞ、これが本当の強さ。
何ならもっと脆くなってもいいからやってしまうぞ! こういう考えが出来る人が、急速にあらゆる不安を克服できるようになる。
できないことの言い訳ばかりして、何もやらない人が、強くなるなんてことは夢物語。
より脆く弱くなるためのラインにしか乗っていない。
もちろんそういう思考に陥るのは必ず理由がある。
そうなってしまうこともしょうがないこと。
決して批判しているわけでもありません。
まずはそう思わざるをえない原因を処理していきます。
同時に、いずれそんな思考と設定になっていくことは頭に入れておいてください。
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31 悩み=脳の混乱
悩むと、目には見えないけれど、脳が混乱してしまう。
混乱するからコントロールできずに、さらに悩みが悪化する。
混乱が増す一つの要因に、悩みを受け入れたくない、消してしまいたいのに、厳然として不都合な状況が脳の奥深くに巣食っている状況がある。
意識でも無意識でも、常にその相克葛藤対立諦め焦りで、脳が許容範囲を超えてオーバーヒートしている。
だからカオスで混乱して、そうなると、きつくて生きづらいのも当たり前だ。
脳が何らかの混乱が起こしていると、どんなにいいアドバイスをしても届かない。
素晴らしいカウンセラーが50年説得しても、一層焦りが脳に混乱を与えてしまう。
理性では扱えきれないほどの混乱カオスだからだ。
しかし、理性が極度に少なく、非常に特殊な感覚的状態、あるいは、ある脳内伝達が分泌されている状態では、脳の混乱を抑えることができるようになる。
感じる回路が開くからだ。
この感じるということは、ダイレクトに自分の思いや人の的確な言葉がけも感じることができる、つまり受け入れられる状態だ。
その時になってはじめて、言葉や想念の働きかけに脳が耳を傾けてくれる。
そして、自分のそれまでの人生の流れ、つまり悩むべきして悩んだルーツを受け入れてくれるようになる。
だから、混乱が止まり、心の余裕が広がってくれる。
そして深い気づきがなされるようになる。
どんなに思慮を尽くしても不可能だった気づきが、ポンと生まれる。
まさに生まれるといった表現が正しい。
さらに進むと、プラスの暗示も入るようになる。
混乱がおさまった脳に、大義名分を伴ったプラス暗示は非常に浸透しやすい。
プログラムでは、混乱を起こしている脳に整理を与えて、混乱を引き起こす塊を洗い流していくことが可能です。
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32 抑圧の塊の氷解
今まで生きてきて、いい経験がない人やそれが極端に少ない人は、脳覚醒トランス状態に入ると、最初は心の底から苦しさ、やるせなさ、いらいらが出てきます。
何か悪い映像を見たり、ひどく怖い感覚があったり、頭が重くなったり、乗り物酔いをしたり、胃がぎゅっとなったりする。
その峠を超えると心地よさ、恍惚感、至福感、一体感、絶対感などに包まれるけれど、まずは抑圧、悩みの種と塊を外さないといけない。
トランスの体感が、感情の世界のレベルまで達すると、抑圧、トラウマ、悩みの種が洗い流されて行く。
無意識に溜まっているものを引き出して、処理して行きます。
逆にそこまでしないと心は洗えない。
自分の心に押し込まれた経験値・マイナスの感情は、自分が自分である限り、一生ついてまわる。
それを見なかったことにしたり、なかったことには、残念だけどできない。
そういう人の心が楽になるということは、付け焼刃ではできないし、理性の世界ではあり得ない。
長い間の強い抑圧は、決して当人の強固な意志や強い思いだけでは外れてくれない。
自分の血肉となっている、そのくせ自分に悪さをするから、ますます厄介だ。
そこを乗り越えるのためには、よっぽど脳と無意識に強く働きかけなくてはいけない。
はっきり言えば、威力の弱い方法を使っていては時間の浪費だし、絶対的な体感を伴うことがないと、心の処理はできない。
それでも、最初は抑圧処理の過程で、抑圧に直面してしまう。
だから、その時は泣かないで、それでも前に歩んでください。
言われた訓練をしっかりしてきてください。
ある一線を越えた時の、心の洗われようは、本当に他ではありえないものです。
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33 プライドは武器になるか?
プライドは厄介な代物だ。
プライドを持たないと生きてはいけないと思う人ほど、それを武器にしたがる。
しかし、プライドは自分を傷つけるばかりだ。
プライドは鎖鎌のようだ。
プライドを武器に世の中を渡ろうとする人は、プライドという名の鎌を振り回して、自分を傷つけている。
しかし、振り回している分、攻撃されにくい。
だから、ますます鎖鎌を振り回す。
そして、どんどん自分だけ心にダメージを受けていく。
実はプライドは武器でも何でもない。
ブランドの洋服を例にしよう。
いくらブランド品で着飾り、プライドを保とうとしても、そういう人ほど汚れて交換するものがなくなると焦りだす。
プライドを維持するものがなくなった時、急激に不安になる。ボロボロになる。
逆にプライドを捨てられる人間が、そういう洋服を着たら映える。
しかし、そういう者は、ブランドの服を別に着なくても映えている。
もちろんブランド品は、品質がいいものが多いし、汚い服を着るよりもいい。
とはいえ、プライドのためのプライドで着るものではない。
プライドって、人はそれを武器にしたがる。
そして、武器にした時から本人の実態が弱まっていく。
一番重要な本人の魅力が損なわれていく。
プライドに頼るものは、反比例して、自分がなくなっていく。
自分がないとどうなるか?
楽しくない、乗れない、冒険できない、そういう負の連鎖に陥っていく。
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34 世の中なんとでもなる
仮に変に思われたとしても、恥ずかしい思いをしたとしても関係ない。
もう時効だ。
人生は一度だけ、しかもあっという間だ。
くよくよしている時間なんてない。
次に進めばいいだけ。
そうしないと蟻地獄のなかで、もがき発狂していくだけ。
みんな自分勝手に生きている。
変なことを言ってもやっても、迷惑かけても、くそくらえだ。
世の中、何があろうと、いくらでも何とかなる。
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35 綺麗な生き方をするには
綺麗な生き方を望む人は、実は綺麗な生き方をしない方がそれを達成できる。
綺麗な生き方をしようと思って囚われている人ほど、自分の心だけに毒やマイナスの感情を溜めてしまう。
汚い生き方をしろとは言わないが、綺麗すぎる水に魚が住み着かないように、毒や泥の要素が自分にあった方が、人生を快適に送れる。
綺麗な生き方は余裕があって、快適に人生を送れる人だけが最終的にできるものなんだ。
毒や泥がこの世界には満ちあふれている。
世の中も人の心も思い通りにはいかない。
その中で我々は生きていかなくてはいけない。
ここでいう毒や泥というのは、自分自身のエゴや地の部分、あるいは感情もそうだ。
時には感情は毒にもなるし、清流を泥水に変えてしまう要素もある。
一番人間的、動物的な要素とも言える。
それを発揮しないで、守って隠して避けて生きて、キレイに歩みたいなんて、土台間違っていることかもしれない。
生きていて楽しい人は、毒も泥も食らいながら、自らもそれらを発揮して生きている。
楽しくない人は、毒や泥を避けていても、何故かそれまみれになる運の悪さを持っている。
もっと進化した人は、毒も泥を食らっても平気な上、自分から吐き出される時はキレイに浄化される。
そういう人間になれば、キレイに生きられる。
毒や泥を避けてはいけない。
そんなものあるのが当然なんだ。
最後に言えば、どんな人間でも糞尿を垂れ流す。
生きている以上、最初からキレイなんてあり得ないんだ。
だが、それだって、肥やしになる。
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36 負の反動のエネルギー利用
できなくてもやる、ダメでもやる、自信がなくてもやる。
人間の脳は、不安と緊張と焦りの時しか動かない。
安全な時、逃げ込んでいる時は眠ってしまう。
つまり、マイナスの状況だろうがなんだろうが、やってしまうこと。
せっかくの無尽蔵の心の資源を使わないともったいない。
不安などのマイナスの感情をバネにしないと意味がない。
このままでいいのか、という恐怖のモチベーションを反動にした時、ものすごいエネルギーが生まれる。
トラウマもコンプレックスもそれ自体、膨大なエネルギーを有している。
それを利用した人間で、トップに立っているケースはたくさんある。
最終的に、プラスの感情で走れるようにしていけばいい。
しかし、スイッチを入れないことには何にも始まらない。
耐えていても一生、悩んでいても一生、何があろうとバネにして走っても一生だ。
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37 泥水をすすれ
人生、泥の部分がないとダメ。
綺麗なだけでは生きていけない。
『水清ければ魚棲まず』だ。
『清く正しく美しく』は、泥水の中を泳いだ人だけが結果的にできる。
清水の中だけを泳いでいたんじゃ、ただの純粋培養人間で、無菌室で育ったもろい人間になってしまう。
純粋はとても美しいことだけど、この泥も毒も闇も、逆に光も美もある世の中では、潰されてしまう。
世の中きれいごとだけではやっていけない。
いくら栄養があるからといって、そればっかり摂取していると、食事が偏り、逆に不健康になってしまう人がいるのと同じ。
毒になろうが薬になろうが、ズバズバ食べた人のほうが、心身ともに健康的だったりする。
心も思考もそれに同じ。
毒や泥を避けて、純でありたいという人間ほど、心の奥底に、実は毒々しい抑圧が眠っていたりする。
心のろ過装置が働いていないからだ。
濾過層がまったくないか、簡単に使い物にならない人ほど、病みやすい。
心に毒をためやすい。
しかし、普段毒や泥の中でも「それがどうした」と思って生きている人ほど、ろ過装置が強靭だ。
結果、抑圧をためない、意外に清らかな精神状態だったりする。
泥水も心のろ過処理で清らかに変えてしまう、そんな人間にしていきます。
そのためには、そういった気づきが必要になるでしょう。
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38 煩悩
煩悩を捨て去れば、苦悩から解放されるという。
しかし、煩悩をむさぼりつくして、その末に達する境地のほうが、実に人間らしい。
普段から禁欲ばっかりしている「こうあるべき」「こうあらねばならぬ」というお坊さんのありがたいお説教よりも、破戒僧のとんでもない生臭坊主のほうが真理をつく言葉を言ったりする。
前者はどこかつまらない、言っていることは正しいかもしれないけれど説得力がない。
しかし、後者は人間として魅力に富んでいて、耳を傾けたくなる。
それは教師やカウンセラーもお医者さんにしても同じこと。
きれいごとは大いに結構。
でも、それを追求するあまり、心に闇を抱えていたら、本末転倒だ。
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39 動物と本能
人間は動物だ。
一応常識はあるけれど、歴史を見たら碌でもない事ばっかりやっている。
大義名分を作って、あとは動物、時には鬼畜に近い所行をやってのける。
だが、マイナスだけじゃない。
大きなことを成し遂げた歴史上の人物はみんな動物的要素を多分に持っている。
理性の優先順位は実は低い。
大義名分さえあれば、人は鬼畜にもなるし、動物的本能全快で走ったりできる。
割に合わない損ばかりしてしまう人間は、実は理性全快の人。
いっておくが、理性を全否定しているわけじゃない。
理性や状況判断、理屈を使うことで、自分が苦しんだり、その価値を減らしている人こそ理性はいらないと言っている。
もっと動物的・本能的になる必要がある。
理性なんか今更捨てたところで、社会でやっていけるし、停滞・惰性から大きく飛躍できる。
脳みそも本能が開いている時に一番力を発揮できる。
理性全快で知恵で何とかしようとすればするほど、能力は埋もれていく。
うちの技術で、モチベーションが挙がる時、どんな状態か思い出してほしい。
理性で自分を押さえていない、感情が、本能がどんどん沸き上がっている時こそ、そうなっている。
理性ばっかり使うと抑圧が貯まり、身動きが取れなくなる。
本能を発揮している時、抑圧は抜け、膨大なエネルギーが次から次へと湧いてくる。
何より感動がすごい。生まれてきて良かったと心から思える。
ここのプログラムは直接本能に訴えかけ、成長するにつれ失っていった本能を再生することができます。
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