1 障害は強くなるチャンス
人生には、何か問題や困難があった方がいい。
不安があってもいい、勝手になっていろ、やりたいことをやるだけだ、そういう覚悟があるから、不安は不安でなくなる。
それを何度も経験すると、不安を逆に味わってみたいな、までなる。
なぜかというと、不安がある状態は、すなわち一番心がのれる状態でもある。
あらゆる面で安全安心が確保されている時、人間は惰性に陥っていく。パワーもキレも失っていく。
障害が立ちはだかればはだかるほど、自分のパワーや可能性を発揮できる。
そして、そういう人は、惰性の安定ほどつまらないものはないと経験でわかっているから、なにか問題が起きてもいつでも来いよ、と思えている。
困難にぶつかるのが俺の人生だ、とまで思っている。
逆に困難を避けたいとなると、起きていないうちから、いつも恐怖に怯えることになる。
不安に対しても受け身にならず、主体的に受け止めよう。
どうせ悩んでしまったのなら、プラスマイナスゼロ地点を目指さず、そんな人間になれるまで、立ち止まらないで頑張って欲しい。
悩みを経た人のゼロ地点は、実質マイナス地点でしかないのだから。
悩むことにはちゃんと意味がある。
現在困難に直面している人は、強くなるための絶好のチャンスだ。
たしかに苦しいし、不安でたまらない。
でも、不安は、生きている限り、今のものが解決しても次から次へと降ってくる。
問題があっても、何があってもチャンスに変えられる、栄養にしてしまう、そんな人になってください。そのサポートをしていきます。
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2 強い人間・弱い人間の差
考えて悩んでしまうには、それだけのベースがある。理由がある。
考えるということは思索である、といったら高尚で聞こえはいい。
しかし、イコール悩んでいることでもある。
悩むことは悪いことじゃない。
だが、いつまでもくよくよ悩んでしまうなら問題だ。
それに悩んでいない快調な人は、考えていない。
それで生きられるの? 世の中を渡っていけるの? と言われると、普段考えている人よりも、能力を発揮している。
考えるべき時に頭が自由だから、人の思いつかないアイデアが閃く。
考えて自由になることはほとんどない。
もし考えて、現在の苦境を打破しようと思っているならば、永遠に答えが出ないどころか、ますますがんじがらめになっていく。
脳が囚われと執着で使いものにならなくなっていく。
それに考えてしまう人は自信が少なく、割り切りが悪い。
割り切ることすら考えてしまう。
考えて自信を得ようとしてしまう。
しかし、この世の中に法則があるとするならば、「そうかな、どうかな?」ではなく、「そうなるんだ、そうするんだ」という方が絶対的に強い。
暗示の力も「できるかな、どうかな」ではなく、「そうとしか思えない、それしかない」の世界だ。
心が定まるとき、もはや考えていない。
それしかないのだから。
これほど強いものはない。こういう人間には絶対に知恵を使っても太刀打ち出来ない。
それに本当に知恵を駆使できているのは、考えていない人なのだから。
プログラムで暗示が深く無意識に入るとき、「そうなる、そうとしか考えられない」状態になります。
しかし、気持ちが定まる前に、自分をがんじがらめにしている無駄な思考に気づくこと、これが大事になります。
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3 失われし子供心の追体験
子供は、思春期から成年期、壮年期にかけての悩みとは無縁だ。
子供は無邪気だ。天真爛漫だ。
無邪気さとは計算しないこと、考えないこと、そして感動を全身全霊でできる。
人は成長していく生き物だけど、天真爛漫さや子供の心だけは変に成長してなくしてしまうのはもったいない。
無邪気さ・天真爛漫さを持っている大人ほどストレスがない、人生が楽しい、そして感動がある。
そんな人を見ればわかると思う。
しかもそれが長続きするし、あらゆることが心の栄養になる。趣味でも仕事でも。
ストレスを溜め込みやすく人生に感動が少ない人は、誰よりも大人をやってしまっている。
大人をやるからこそ、ストレスに弱くなり、生きていて辛いことばかり拾ってしまう。
そんな人であれどんな人であれ、心の奥底に眠る『子供の心』を持っている。
しかし、あまりにもそれらを抑圧して生きてきたために、自分にそんなものがあるなんて気づかない。
だからこそ、大人の虚飾をすべて剥いだ心の状態になる必要がある。
それは心のリセットだ。
時間軸では起きたことはリセットできない。
が、脳覚醒トランス状態では、その人の脳奥深くに眠る子供心にリンクさせることが可能だ。
成長するに従って、色がついていった心をリセットできる。
脳は刺激を与えないとどんどん衰えていく。
それは子供の心も同じ。
大人をやると、子供の心が大切だと思っても使うことができなくなる。
楽しみたくても楽しめない人間になってしまう。
そんな大人の脳に、自分自身の子供心を追体験させる。
なぜそんなことが可能かというと、変性意識状態がある一線を越えると、人は子供になる。
それを退行というけれど、理論上存在しても、実際にその状態になることは非常に難しい。
それもそのはず、浅い催眠状態に入ることすら、ほんの被暗示性の高い人をのぞいて困難なのだから。
ここでは、ほとんどが理論倒れに終わっている退行状態に実際に誘導で入ることができる。
そこで子供時代の無邪気さ、天真爛漫さに浸ることで、ギュウギュウに狭められた大人の脳に余裕を与えていく。
感情的栄養も与えることができる。
効果も緩みも暗示浸透力も延ばすことができる。
感動しようと思っても、大人では感動できない。
子供のように素直に天真爛漫に感動できるベース作りをしていく。
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4 無意識の扉を開くストレッチ
ストレッチ法は、ただのストレッチだと思ってやってはダメ。
脳に緩み、解放感を味あわせ、なおかつ、緩みの暗示に一瞬で反応するために大切だ。
呼吸法の質の向上にもつながり、脳覚醒トランス状態の深さと余韻を飛躍的に深め延ばす。
首のストレッチや肩甲骨のストレッチであっても、すべては脳の緩みと直結している。
体の緩みは脳の緩み。
そして、脳の緩みは体の緩みを作り出す。
緊張状態やストレス状態で暮らしている人は、体が硬直化している。
脳に余裕がなくなり、更に体が硬くなり、緊張やストレスを受け流せなくなる。
さらにそのしわ寄せが、脳の枠を狭め、余裕をなくしていく。
肩、腰、首、背中、腕などの部位が異常に凝るようになり、脳はますます『緩み』を忘れていく。
そんな状態でいくら自分にプラス暗示をかけても、リラックスしようとしてもすべて跳ね返してしまう。
だからストレッチ法は、体の部位を緩めるだけではなく、脳の緩みも創出しなくてはいけない。
そのために、目を閉じ負荷の部分に意識を集中させ、ゆっくりと緩める。
そして解放感や緩みの感覚を脳に味合わせる。
ベロンベロンに脳が緩身を味わうぐらいにやってほしい。
想像力がある人や、直近でそれなりに体の緩みを脳が味わっている人は、その想像がしやすい。
決してぐいぐい押し込んだり、味合わないで『ながらストレッチ』をしないこと。
首のストレッチであっても、全ては脳のストレッチなのだから。
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5 トランス呼吸法の時間
毎日コツコツやる呼吸法も大事だ。
しかし、中には忙しくて時間がない人がいる。
またやろうとしてもすぐ寝てしまって、実質的な時間がほとんどとれていないという人もいる。
そういう人は、毎日呼吸法をやることを意識しながら、休みの日に、一気に長時間やり続けてほしい。
一気にやることの利点は、まず連続的な呼吸により、求めず状況チェックもせずとにかくやりつづけることで、変性意識の積み重ねができる。
途中でやめたら変性意識のレベルはその時間までしか味わえない。
しかし、長時間やることで、今まで体感したことがない、特殊な意識の流れに入る。
これは沈み込む感覚、体が浮く感覚、宇宙遊泳している感覚、手足がない感覚、手足が遠くにあるような感覚、睡眠よりもはるかに深い状態に意識がありながらも身をおいているような感覚、幽体離脱、天地が逆になるような感覚、大地と一体化するような感覚と様々な意識の変容状態になる可能性が高くなる。
もし仮にただ息を吸って吐いただけで長時間を終えてしまったとしても、その長時間をやってやろうというハートが、自分の心を後々大きく変えてくれる。
これは間違いないことで、そのときに意識が変容しなくてもがっかりしないでほしい。
その呼吸の量の積み重ねは必ず生きてくる。
無駄に思えることでも、やるという意識こそが自分自身の壁を突破してくれる。
逆に無駄をたくさん経験してやろう、それが結果に結びつかなくても構わない、ただやるだけだ、という心境になりきれれば、そういう人は異常に暗示にかかるし、様々な潜在意識的な建設的構築が成されるだろう。
脳覚醒トランスの体感のすごさで言えば、いつもより呼吸法の量を6倍やったとする。
その時、トランス体感の深さ・すごさが6倍になるかというとそうじゃない。
6倍の自乗、自乗で深化していく。
自分自身を強化・深化させたいと強く願っているのであれば、とことんまで呼吸法をやってほしい。
その価値の大きさは、一生ものだし、人生を一変させるだけの威力を持っている。
もちろん、私のプログラムで想像以上の大きな効果をあげられるようになるし、最高の感動を味わうことは間違いない。
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6 幸せが怖い
私は感動するために、楽しむために生きている。
せっかく生きているのだし、やり直しができないのだし、いかに自分が「やってやったか」「感動したか」だと思う。
決して耐えるためでも、苦しむためでもない。
とはいえ、生きていれば耐えるときもあれば苦しむ時もある。
でも、それがすべて感動や達成感に結びつくならば、大歓迎だし、いつでも来いよ、と思って生きている。
いや、何があってもいいわけだから、そもそも壁が大きく阻んだとしても、障害物だとは思わないで、フリークライミングでもやってやるか、と思ってそれも冒険にしてしまう。
結局感動を味わえるし、何があってもブレない覚悟や自信が積み重なっていく。
だから、人がなんとも思わないことでも、幸せを感じることができる。
ある意味幸せで満ちたりしているのかもしれない。
それでいて、それで大満足しているわけでもなく、もっともっとなにかやりたい、感動を味わいたいと思っている。
もっともっと走って行きたいと思っている。
よくドラマや歌でも、「幸せすぎて怖い」という台詞や歌詞がある。
「こんなに私は幸せを味わっていいのか? あとで不幸になるんじゃないか」思って、その幸せも壊れることが怖くて、幸せを味わえない。
まあ、端から見たら、「それも幸せじゃないか」「のろけているだけだろう」と思うけれど、当の本人が怯えてしまうのも理由がある。
大きな理由の一つとして、幸せやハッピーな感情を抑圧され、否定され、喜んだら潰される経験を子供の時から経験していることがある。
だから罪の意識を感じてしまうから、幸せが怖くなる。
喜ぶことへの拒絶反応が無意識手に突き上げてくる。
だから幸せでも、罪の意識を伴い、だからといって不幸せならもっときつい。
そちらは、トラウマ処理、トランスルーツ整理をすることで、「そうじゃないよ、あなたは幸せになっていいし、罪の意識を感じる必要は全くない」といった暗示をコアの部分に入れ込む。
また、不幸への覚悟がないから、現在進行形の幸せにも不安を持ってしまう。
不幸への覚悟というよりか、「何が起きてもいい覚悟」といったほうがいいかもしれない。
何があってもいいと思っているのだから、この先今の幸福な状態が破綻しようが、現在の幸せも存分に味わえる。
人生を分けるのは結局そこなんだ。
存分に幸せを噛みしめることが出来る人は「何があってもいいと思っている」
幸せなんだけど不安、何があっても不安の要素をいれこんでしまう人は、今言った要素が抜け落ちてしまっている。
不幸か幸せかなんて、端から決められるものじゃなく、本人がどう思ったか、それだけだ。
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7 飛べない飛行機と無意識
人間の無意識の可能性において、いくらすばらしい理論を打ち立てたとしても、実際に体感を伴わなければ意味がない。
それは机上の設計だけ素晴らしくて、実際に飛べない飛行機をつくっているようなもの。
飛ばなければなんの意味もない。
小学生の考えた未来の飛行機の絵と同じ。
そういったものが、あまりに世の中にあふれてしまっている。
でも「可能性を感じるから」「非日常的でなんだか凄そうだ」「理性だけでは人間の深い可能性は開花させることはできない」「人間って、その精神って、そんな可能性があるのか!」とブヨブヨと引き寄せられてしまう。
その結果、実感も伴わなず、ただ時が過ぎ去るだけになる。
『知』だけ肥大化させても、人の心にはまったく届かない。
本当の『知』を会得するためには、絶対的な体感が必要だ。
たった一回の体感が、教科書100万回朗読の成果をはるかに超える。
飛べない飛行機はただの置物。
飛べる飛行機を作ること、それだけに着目して、私は心理脳内訴求技術を研鑽してきました。
実際に飛ぶことができます。
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8 過去の亡霊
誰であれ、過去の経験値によって、現在を生き、未来を生きていくことになる。
それがいいことがない経験値だと、悪いことしか起こりえないという想像しかできなくなる。
だから、占い師ではなくとも、その人の未来を言い当てることはそんなに難しくない。
過去と今は密接に関連していて、未来もそれで決まってしまう。
思考も好みも、自分の過去の青写真から判断してしまう。
それしか判断しようがないからだ。
過去の悩みのルーツやトラウマをほったらかしにしていたら、どんなに考えても、いいことなんか考えられない。
考えれば考えるほど、脳みそに余裕がなくなり混乱し、落ち込むだけ。
逆に、苦難を乗り越えた人は、その経験値があるからこそ、次の苦境が来てもたくましく対処できる。
ピンチこそチャンスだという経験を体感した人は、リスクあることにも飛び込んでいける。
だから、どんどん人生が開けていく。
その体験値ほど尊いものはない。
人はプラス面でもマイナス面でも、過去に支配されている。
それが実態のない自信になり、得体のしれない不安にもなる。
悩みを抱えている時の好む異性も、悩みやそのルーツとリンクした人を選ぶし、その次も知らず知らず似たようなタイプに惹かれてしまう。
しかし、過去は変えることができる。
起こった事実は変えられないが、捉え方、見方、そして執着力を変えることができたら、それは『ただの出来事』になる。
そうなると、過去の自分の延長線上にあった未来の人生を明るい方向に変えていくことができる。
好みも違っていき、より良い出会いが待つようになる。
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9 伸びきったゴム
気を抜いていてもなんとかなるものだ。
気を張り続けると、逆に何かあった時に、普段からの労力に見合った対応すらできない。
さらには、そのマイナス体験がますます気を張り続けさせることを強要し、悪化の一途をたどる。
エネルギーも続かず、ついには潰れる。
あれだけパワーを費やしているのにもかかわらず、得たものは徹底的な疲労感だけ。
それでは人生はきついものになってしまうのも当たり前だ。
ちょっとしたことでも、悩みや不安といったものが自動的に増幅し、悪化し続けていく。
だから、思考の位置を変えなければ脱出は困難だ。
気を抜いたほうが楽なのは、誰でも頭ではわかっていることだけど、それをしたら自分は終わるとも思っている。
しかし、自分を守るために気を張り続けると、自分すら守れなくなる時が来る。
そうなると、心と神経のオーバーヒートを沈めることが必要になる。
オーバーヒートするのは、そうせざるを得ない事情があったからに他ならない。
気を抜くことへの恐怖はそこから生まれる。
そこの認識と、気を許せなくなったルーツを洗い出し、執着を外していく。
多くの人が悩んだ時に、思考の幅が極端に狭まり、同じ事しか繰り返さず、底なし沼にもがいてハマるけれど、同じ轍を踏んではならない。
心と脳内の問題克服は、人と同じ事をするのではなく、発想の位置をずらし、人と違うことをやるから、悩みの方程式から外れることができる。
たしかに、当所のプログラムは、他とは違うもので、世界のどこにもないものだから、チャレンジしてみてください。
気を抜いたら人生も自我も崩壊することはない。
逆に両方とも大きく可能性が広がるし、その緩みが自分を逆に守ってくれる。
何より楽だし、だからこそ自分の能力も発揮できるんだ。
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10 人間関係の罠と気づき
人とうまくやらなくてもいい、と思えている人間ほど、人とうまくいく。
人と衝突しないように、恥をかかないように、変に思われないように、自己主張もエゴも抑えて、人とうまくやろうとしたほうが得だと思い込んでいる人ほど、うまくいかない。
だから、ますます自分を抑える。
そして、空虚感をもち、自分をなくし、感情もなくす、でも抑圧だけは積もっていく。
さらに、相手にどう評価されるか、どう思われるか、そればっかりになる。
これを思春期から、老人になってさえもやってしまう。
この罠に気づかないと、この問題のみにエネルギーを費やしたまま、あっという間に人生は終わる。
気づかないと何にも進展はない。
同じことの繰り返しの恐怖も持った方がいい。
もういやだ! こんなことはもうたくさんだ! この反動を使ってほしい。
そして、自分を変えるエネルギーに変えてほしい。
人間が最もパワーを増すのは、不安と恐怖から回避しようとする時だ。
その後生産的な方向に持っていけばいいし、その手伝いをしたい。
だからこそ、いま気づかないと大変なことになる。
心底から「変わりたい!」気持ちを持たせることができるのは、他のだれでもなく、自分自身しかいないのだから。
人は悩みにとらわれたら、良い頭も使えなくなって、永遠と同じことばっかり、しかもくだらないことでもやり続けてしまう。
『気づき』、これなくして問題を解決できることはない。
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11 見えざる不安
人間は不安を感じやすい。
不安というものは、見えているのなら実は大したことがない。
ところが見えない不安となると、たちまち悪い想像力が働き、雪だるま式に増えていく。
あたふたしていると取り返しがつかなくなる時もある。
あるいは、自分の子供に、何かが起こったらどうしようという不安は耐えられない。
自分のことじゃないだけにどうすることもできないし、不安の本質を掴めないからだ。
自身のこと以上に心身ともにボロボロになる。
見える不安、見えない不安、それらはいつでも私の人生に存在しているもの、その中で生きていく、そういう覚悟しかない。
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12 良い感覚の獲得方法
感覚、特に良い感覚は追い求めれば逃げてしまうもの。
感覚は理性よりもはるかに重要なものだし、そもそもそこに圧倒的優位をおいているのが人間だ。
人間は知恵があると言っても所詮は畜生の類だ。
言葉が悪ければ生きものであり動物だ。
ちょっとお化粧して取り繕っているだけにすぎない。
良い感覚とは、非常に心地よい変性意識から、幸せ、嬉しさ、笑い、満足感といったものだ。
みんな欲しいと追い求めるけれど、スケベ根性、小細工、損をせず得を取ろうという姿勢で、良い感覚を拾おうとすると、一生近づけないどころか、ますます遥か彼方に追いやってしまう。
獲得方法を知らない人は、どうしても理性と知恵で追求しようとしてしまう。
だが、結果は無残なものになる。
その努力感に比べて、何も得られないどころか、とても味気なく苦しい人生を獲得する羽目になる。
良い感覚を獲得できなくても「それで行くぞ、だから何なんだ」という姿勢こそが、逆に幸せを運んできてくれる。
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13 心のコアに到達するカウンセリングとは
気に病むと、当然目には見えないが、脳が混乱してくる。
その混乱の一つに、悩みを受け入れたくないのに、消してしまいたいのに、不都合な状況が脳の奥深くに厳然として巣食っているからというものがある。
無意識下で常にその相克・葛藤・対立・諦め・焦りでオーバーヒートしているからだ。
だからそのカオスで混乱して、これではきつくて生きづらくなるのも当たり前だ。
脳に起きている混乱は、どんなにいいアドバイスをしても届かない。
素晴らしいカウンセリングを何百回繰り返しても、アタマの表面で理解できるが感情は別、となる。
それどころか一層焦りを脳に与えてしまうんだ。
理性では扱えきれないほどの感情的混乱・カオスだからだ。
しかし、理性が少なく、非常に特殊な感覚的状態、あるいは、ある脳内伝達が分泌されている状態では、脳の混乱を抑えることができるようになる。
言葉の働きかけにも脳が耳を傾けてくれる。
カウンセリングはその状態で、悩み解決へのヒントを単純明快に行うことが理想だ。
それ以外の状態でのカウンセリングは、お話会にすぎない。
当所の深い脳覚醒トランス状態で、それまでの人生の流れ、つまり悩むべきして悩んだルーツを受け入れてくれるようもっていく。
だから、混乱が止まり、枠が広がってくれる。
悩む自分への否定感と執着しすぎる自己ルーツへの嫌悪感の塊を収縮させていく。
さらに進むと、プラスの暗示も入るようになる。
言葉の力、それを最大限に発揮するための理想の脳の状態に持っていくのが私の技術とも言える。
カウンセリングはとても重要だが、言葉の力が相手のコアに響かなければ意味が無い。
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14 格好が良い、格好が悪い
安全な位置で格好良く思われたい。
恥をかかずに、怪我しないでいいように、できればよく思われたい。
それが格好悪い、その時点で。
それって結構その人のオーラとして出てしまっているんだ。
はっきり知覚されずとも、どこかで感じ取られてしまう。
それはそのルーツの中で生きづらいほどに作られている。
好きでなったわけではない。
だからこそ自覚してほしい。
格好良く思われたいこと自体が一番格好悪く見られる。
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15 常に深化していく魔法の時間
脳覚醒トランス体感にはインパクトのあるものから、まろやかなものまで幅広くある。
それは私が調節できる。
そして、今現在体感している状態がすべてではなく、どんどん質が深化していく。
必ずその先がある。
脳は一度覚えた体感を忘れ去ることはない。
それをベースとして、さらに脳覚醒トランス体感を進化させていく。
質の良いトランス状態とその余韻に包まれた時、それは大きく脳が啓いている状態だ。
私は決して魔法使いではないけれど、あの時間は『魔法の時間』と言っていいと思う。
その時、あれだけ理性で納得しても感情には届かなかった言葉がけも成功するようになる。
あれだけ気力を尽くして、不都合な状態(悩み)を亡きものにしようと頑張っても逆にドツボにはまっていた状況が、嘘のように自分で処理できるようになる。心の枠が広がってくれる。
自分の心にどんなに訴えかけても乗り越えられなかったハードルの高さを、心理脳内訴求技術で一気に低くすることができる。
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16 出来の悪い人間
出来の悪い人間になれ。
出来が良すぎるから悩む。
出来が悪くても、出来のいい結果などいくらでも出せる。
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17 いくら考えても無駄なものは無駄
いくら考えてもそれで解決できないことならば考えてもしょうがない。
考えるだけバカを見る。
いや考えただけ悩みを引き寄せ、執着をパワーアップさせてしまう。
そこで割り切る能力が必要になる。
はっきり言って、知恵や知識だけでは人の心の本質は変えられない。
そこに本心から気づけるか、いつまでも無駄と徒労の悪循環で時間を浪費するか、人生が明るくなるか暗くなるかの大きな分かれ道だ。
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18 人はアドバイスでは変われない
どんなに有難いアドバイスも、相手に通じなければ無意味だ。
そういう意味ではカウンセリングは悩み克服に必要不可欠なものでありながら、いつか必ず限界が来る。
たしかに人に抱えてきた悩みを打ち明けることで、心が洗われたりする。
だが、それも悩み克服に10の過程が必要ならば、ほんの1か2の段階までの話だ。
残念ながら、アタマでわかっても人は変われない。
もっと感情・情動から気づくこと、これに勝るものはない。
そこで得た答えは一生の消えることのない財産になる。
私は悩みがあり固定観念と執着の強い人に向かって、一生懸命アドバイスしても無駄だと思っている。
もしそれが可能な人ならば、その人は本を読んで、そこで強い納得した時点で悩みが解決しているはずだ。
しかし厄介なことに、人はそんな単純にできていない。
それならば、素直に言葉が聞ける状態(固定観念も執着も理性もメンタルブロックも超えた状態)に導いて、そこで気づきを与えたり、アドバイスをするほうがはるかに効率的で効果的だ。
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19 手の震えの心理、震えない心理
手が震える時、人はそれを抑えようと必死で努力する。
「私は落ち着いている、震えるな、震えてはまずい、人に悟られてはやばい、なんとかしないと」と思う。
しかし、この思考に入ると、焦りはますます強化され、震えへの執着は二度と消せないほど、その人生を支配してしまう。
常に予期不安に苦しみ、震えるシチュエーションでは、何とか震えを抑えこもうと肩や腕や手に力が入れようとする。
しかし、ますます震えが増幅していく。
この焦りと執着と不安と異常な疲労感がエンドレスに続く。
心がすっかり飲み込まれて、冷静さも客観性もなくなっていく。
肩から背中、手までが異常に固くなり、肉体的にも震えやすい体になってしまう。
そうなると、今まで震えない場面でも簡単に震えてしまうようになる。
どんどん悩みの執着が増し、その執着が悩みを強化する悪循環にこうしてハマる。
そんな人が「震えるな、私は落ち着いている」といくら暗示をかけても悪い執着を強化するだけだ。
思考のベクトルとしては「どのくらい震えるか見てやるぞ。震えたいなら勝手に震えていろ。だから何なんだ」という方向で行かない限り好転は難しい。
逆にそういう思考ができる時、執着が外れているということ。
心理的な手の震えは、そうなるだけの理由がそれぞれの人生にある。
そしてそこに執着しているからこそ泥沼に浸かる羽目になる。
脳覚醒トランス状態下で「なって当然の流れで私は来たんだな」と心の奥底から気づくこと、それが手の震えへの執着を外してくれる。
そして、上述した思考のベクトルへと変わっていく。
そうなると体の力も抜けていき、震えの衝撃が和らぎ、脳にも余裕ができ、好循環へ向かっていってくれる。
震えるには震えるだけの理由があり、震えなくなるのもそうなるだけの理由と思考がある。
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20 どちらの道が不安か?
ある覚悟を持って生きている人間はいじめられることはない。
人に何かされたらどうしようと怯えている人ほど、ストレスになることを人からされる。
限られた人生、いつかは死ぬ。
怯えても一回、強気で行っても一回だ。
怯えて生きているものが早く殺されたり、淘汰されるのが自然界の掟だ。
まだ覚悟したほうが、確率的に生き残っている。
人間界も自然界の範疇からは抜け出せない。
人間的な暮らし、最低限度の幸福だの何だの言っても、結局弱肉強食的なものはある。
殺されはしないけれど、精神的に抹殺される世の中だし、それが現実だ。
生きるって覚悟だ。強くなるってことは覚悟が増したってこととイコールだ。
どこに行っても何をするにしても、大・中・小の覚悟を身に纏わなければ生きてはいけない。
覚悟を持つって、とても敷居が高く最初は不安だらけのように思える。
だけど考えてみて欲しい。
覚悟がない状態で生きた者ほど、不安だけを拾い、プライドと防衛本能を高くして自分の身を守ろうとするが、結局ストレスだらけの人生になる。
どちらが正解か、考えるまでもない。
人生は惰性に入ると、あっという間に低空飛行のまま過ぎ去っていく。
自分はどちらの道を進むべきか、そこを明確に意識して欲しい。
覚悟を持って生きることは茨の道に思えるかもしれないが、結果的にこれほど楽でストレスのない生き方はない。
これは保証してもいい。
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21 起きたことはしょうがない
悪いことが起きてしまったらどうするか?
起きたことはしょうがない、それだけだ。
そんな素晴らしい思考と心構えにするのが私の仕事でもある。
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22 理性と知恵よりはるかに重要な感覚
感覚は絶対的で超越的だ。
頭でわかっている何億の事象より、ただ一つの感覚に勝るものはない。
そして、感覚は理性を外してこそ生きる。
そうじゃないものはまがいものに近い。
理性をそぎ落とした姿こそ、本当の頭の良さ。
理性は真の意味で頭の良さに繋がらない。
理性を削ぎ落した裸の自分から構築した知恵こそ、はじめて立派な叡智として駆使できる。
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23 末端とトップとの差
ビジネスでも何でも、物事の視野が狭く、ある一点からしか見えない者は徹底的に使われる人間だ。
いくら学歴があっても資格を有していても、どんどん底辺と末端へ追いやられていく。
一方で常に広く物事が見えて、『これからどうあるべきか、どう行くべきか、これで行くぞ』と決断でき、そこに生き様と覚悟が入って割り切りができる人間がいる。
そういう人間は小さなことで悩んでいない。
いつも生き生きしていて心の枠があり建設思考で、そういう者ほど大きなことを成し遂げられる。
その要素がない者は、それを作らないといけない。
だが、自分が変な固定観念の塊で、枠がない考え方しかできないということを、一番本人がわからない。
人に指摘されても、それが当たり前でずっと生きてきているから、何がダメなのか、どうやって変えたらいいか皆目検討がつかない。
普段の惰性脳・平常脳では人は気づきに至れず、その脳のまま生きてしまい、脳が冷えきり固まっていく。
だから、人生のどこかで気づくしかない。
人から気づかせてもらうのではなく、一番自分が気づいたものが真実で永続的だ。
ここで脳覚醒技術の出番だ。
いかに枠がない生き方をしてきたか、脳覚醒状態=トランス状態で分析・整理作業をすることで、気づきに至れる。
そこから全ては始まる。
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24 避け続けた未来予想図と気づき
不都合なこと、障害となっていることから逃避しすぎるとどうなるか? 防衛しすぎるとどうなるか?
その先に何が起こるのか?
避けると一歩前に出るのが余計怖くなる。
被害を過度に恐れると、「人から悪さをされたくない、いじめられたくない、そこからいかに避けるか」に頭を使いすぎる。
そうなると人に合わせて、個性も主体性も押し殺し、感情を抑圧してしまう。
当然、楽しくない。
人が楽しいと感じる時は、子供のような心で、自分勝手にワガママやって、自己主張している時だ。
怪我しないように合わせると逆に精神的に傷ついてばかりになる。
長い間それをやっていると、合わせる自分しか記憶にないし、合わせないで自己主張することなど考えられない。
まるで一歩踏み出すことさえ、死刑台への階段を登るような心持ちとなってしまう。
人が何気なしに当たり前にこなしていることでさえ、その何十倍もの勇気とエネルギーを必要とするようになってしまう。
こうなるとますます自分の行動範囲が狭まり、視野も思考も比例して超限定されたものとなる。
そもそもが人に好かれるってことは、逆に言いたいことを言っている時。
合わせない自分、ちょっと出来の悪い自分、地の自分を見せた時に、相手に安心感を与えるし相手も心を開きやすくなる。
一歩出ることの恐怖が染み込んでいるから、以前それをやってきた人は、このままずっとやっていった末どうなるかという恐怖に気づくこと。
その何段階深まった気づきである『悟り的気づき』にまで高まれば、一歩前に出る原動力となってくれるし、永続するモチベーションと傷への耐性が出来上がる。
今までの悪い流れが堰き止められ、いい方向に逆流し始めてくれる。
気づくこと、それは今までの自分の固定観念を破壊してくれる。
気づきはアタマの世界では決して得られない。
気づきは感覚であり、一瞬の深い感情を伴った知覚だ。
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25 人間関係最強の武器
我々は人の何に魅力を感じるのか?それはその人の
生き様
信念
覚悟
余裕
自信
器の大きさ
割り切れる能力
それらが人間関係における真に切れる名刀となり、もはやテクニックなど必要がない。
いちいちテクニックを使わない存在だからこそ、さらに人から重要視される。
その根本構築を飛ばして、「よく思われよう、うまくやろう」なんていう努力は小細工に過ぎず、自分を小さく見させてしまう最悪の方法だ。
そこを知らないと自分をテクニックで磨き続けていたはずなのに、傷口を広げ逆に自分自身を錆びつかせてしまう。
錆びたなまくら刀をいくら振り回そうとも、相手の心にズバッと突き刺さることはないんだ。
人間関係における最強の武器とは何か? 地位か、肩書か、容姿か、話し上手か?
その答えは言うまでもない。
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26 呼吸を舐めるな
人は当たり前だけど呼吸をして生きている。
だからこそ呼吸のことなど意識しないけれど、実は呼吸は生きる上でかなり重要だ。
快適に生きている人は呼吸が深いし整っている。(とはいえ本人もそれを意識したりしないが)。
一方で悩んでいる人やストレス負荷がかかっている人は、例外なく呼吸が乱れている。
特に急に緊張や不安に直面した時、その人の呼吸はひどく乱れたり、浅くなる。
そんな呼吸になると、脳まで満足に空気が届かなくなり、脳みそが働かなくなる。
そうなると脳は危機感を募らせ焦りと不安を強め、自らストレス要因を拡大再生産させ、その結果ますます呼吸が乱れる。
陸上にいながら、内的に脳みそが溺れている状態だ。
そして危機感がさらに増し、焦り、不安が膨張し、恐慌状態に陥っていく悪循環に入る。
頭が真っ白になったり、息苦しくなったり、動悸が乱れたりして、下手をするとパニック発作になっていく。
もう理性や客観性や落ち着きは吹っ飛び、そこから抜け出すすべての努力は、逆にパニックを助長する。
なぜコントロール出来ないのかと悩んでも、脳が働かなくなっているのだから当たり前のこと。
日常でも何かあったらすぐに呼吸が乱れるから、人が不安に思わないことでも必要以上に不安を感じる。
人が受け流せるストレス要因も、過度のストレスに感じてしまう。
その悪い流れに入ってしまうと、脳もしっかり働かないから、やることなすことうまくいかない。
私はその人の呼吸一つで、心理状態からそれまでの半生まですべてわかる。
それぐらい呼吸は現状と過去の人生と密接にリンクしている。
普段呼吸が乱れている人は、ゆっくりの弱い呼吸法ですらすぐ息苦しくなってしまう。
その乱れた、そして限られた呼吸の容量で普段から生きているのであれば、生きづらいのも当たり前のこと。
呼吸という観点から見ても、悩むには必ず理由があることなんだ。
なぜ呼吸法が大事かといえば、トランス状態に深く入ることもあるが、毎日のコンディションを整えるためにも必要だ。
浅く乱れた呼吸では、まず生活の質をあげることはできない。
まず自分がどんな呼吸をしているのか自覚することだ。
たかが呼吸だけど、人生の質全てに密接にリンクしているぐらい重要な事を再認識して欲しい。
そして、トランス呼吸法とストレッチ法をやることで呼吸を整えさせすれば、生きやすい自分に変わることができる。
最近調子がいいと感じている人は、必ず呼吸が普段から整っていてうまくいっているはずだ。
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27 ストレッチ 自力と他力本願
トランス・ストレッチ法、とにかく自分で緩めるべし。
体が緩まれば、心の余裕につながり、ストレスや衝撃を受け流せるようになり、生活が好循環に入っていける。
そのためには脳で緩みをしっかり味合わせるストレッチ法をする必要がある。
では、緩むためならマッサージ店でプロに体を揉んでもらうのはどうか?
決してそこに頼ってはダメだ。
確かに感覚が繊細で技術的に秀でているマッサージ師ならば、ベロンベロンにさせてくれ、極上のリラックス感を与えてくれる。
だが、一流のマッサージですら、一時的にホッとしたとしても結果的に筋肉をより硬くしてしまう。
強く揉めば揉むほど反動でさらに筋肉が固まって行くものなんだ。
そうなると今以上に強く揉まれることを欲し、店に通えば一時的に緩むものの、通う前以上に凝り固まっていく。
そのイタチごっこで、永遠の対症療法となってしまう。
だからこそ、自分で作りだした緩みこそが至高だ。
あくまで自分の脳で緩みの指令を出し、緩みと解放感をしっかりと味わい、さらにそれらを自力で増幅させるようにならなければならない。
そうすれば体はもちろん心の自己コントロールもしやすくなる。
何事も近道や楽な選択をするとろくなことがない。
世の中そんなおいしい話はころがっていない。
ストレッチ法にかぎらず楽な道には必ず痛いしっぺ返しがあるんだ。
遠回り、無駄なことだと思うことでも、それを遂行できる人間だけが、本当の見返りをもらえる。
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28 無為無策惰性の時間の恐怖
今変わらずしていつ変われるというのか?
人間はどうしようもない生き物で、ダラダラ過ごしていると希望も感動もズルズルすり減らしながら、あっという間に10年、20年経ってしまう。
無為無策で惰性で虚無で平々凡々以下で何の感情的余韻も味わえず老い衰えていく。
後から後悔してももう遅い。
人はその都合の悪い恐怖を見ないようにして生きてしまう。
しかし、目を背け続けることなどできない。
10年後全く何にも変化していない自分に直面して血の気が引くことになるだろう。
ならば今しかない
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29 「たかが」と「されど」
たかが呼吸、されど呼吸。
「たかが」の人は、たかが(=取るに足らない)の人生になっていく。
「されど」いう決意で呼吸法に取り組む人は、光り輝く黄金を見つけられるだろう。
人間、無駄だと思うことでもやっちゃったもの勝ちだ。
もしやりぬいたならば、人が辿りつけない境地にいける。
自分を取り巻く現状を変えたくないか?
たかが呼吸法だが、されどやりぬいた者は確実に自分に奇跡を巻き起こせる。
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30 知恵は容易に小ずるさに堕する
小ずるさはすべてを無に帰す。
とはいっても、やっている本人は小ずるくやろうなんて考えてはいない。
うまく知恵を使って得をしよう、自分は怪我をしないで見返りを得ようとする、ついやってしまう当たり前の行為が小ずるくさせてしまう。
だがそんな器量のない人間に価値を見つけてくれる殊勝な人などいない。
自分のことに忙しい奴ばかりだからだ。
そういう者は知恵ばっかり張り巡らせて器量のない人間と関わっている時間がもったいないと考える。
小ずるくうまく立ち回れたところで、得点をとれたのは一瞬でちっぽけなものだけ。
中期的に見れば、しこしこと得点をとって前進したようで、実は大きな失点を重ねて大きく後退していることに気づくべきだ。
人はその人の器量を知らず知らず読んでいる、言い方を変えれば感じてしまう。
老若男女誰であれ、いや犬や猫もそう。
器量がある奴が勝ち抜け、ない奴は一生底辺で蠢くことになる残酷な社会、そこで我々は生き抜いていく。
何が己に必要になるのか、その答えを是非導き出して欲しい。
その答えを一生消え失せないほど心に刻む手段を私は提供できる。
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31 絶対体感哲学
いくら頭の中で人生哲学や成功哲学や形而上学をやっても、絶対的体感が伴わないそれは発展性のない学問ごっこ、哲学ごっこにすぎない。
せいぜい二、三日しかそこで得た答えは実社会で通用しないだろう。
言うまでもなく体感・実感を伴わない答えだからだ。それは答えではない。
脳覚醒トランス状態で得られる絶対的体感の中で掴んだ気づき、答えこそが一生の宝ものになる。
頭の中でこねくり回し、逆に己をがんじがらめにする非生産的繰り返しはもうやめにしよう。
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32 トラウマ解決への刺客
心的外傷(トラウマ)は、心の傷を受けた人の中で最大の衝撃であり、極度なマイナスの実感だ。
その後のひどく生きづらい人生を決定づけてしまうほど脳に焼きつかせてしまう。
それを表面的に理性や知恵で切り抜けよう、なかったことにしよう、気にしないようにしようとかすること自体、心の傷を深く認識し執着する行為に他ならない。
どんなに逃避防衛行動をとっても、残念だけど一生ついてまわるんだ。
無駄なあがきをするだけ、状況を悪化させる。
生きている限り、脳の一番深い情動・本能に深くえぐられた傷を無にすることなど不可能だ。
衝撃的なマイナスの実感を解決するには、もう一方での強い実感(トランス状態、脳覚醒状態)をぶつけなければならない。
それにより抑圧が出てきて解放され、トラウマへの執着が外れていく。
またそのトラウマがどういう流れで現在の苦境につながっているかも気づいていく。
これらはトランスという実感が深まれば深まるほど劇的に効果が上がっていく。
起こった事実は消せないが、とらわれと解釈が180°変わっていく。
マイナス感情には人間の最も深い原始的な情動を、強い実感にはそれ以上の強烈な実感を刺客として送り込む。
実感を伴わないトラウマ処理法では解決を先延ばしにし、いつか限界が来てしまう。
それで解決できるほど人の心はそんなに甘くはないし、心の傷はそんなに弱くない。
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33 無感動的死脳にならない方法
感動することは大事だ。
燃えるエネルギー、生きていてよかったという実感、能力発揮へとつながっていく。
そうすると感動する下地が自分にできて、さらに感動しやすい体質になる。
一方無感動の人は脳が死んでいく。
つまらなさ、やるせなさ、むなしさ、さびしさの感情の海で脳が浸かり続けると、発展的な脳の思考が起きなくなる。
そうなるとさらにマイナスの感情に取り憑かれ、ついには機能不全に陥っていく。
感動できないのは感動できないルーツがあるからだ。
そんな人に「感動したらいいですよ、人生楽しいですよ」とおせっかい人間が助言しても「そんなこと言われなくてもわかってる!」
「感動したいのにできないんだよ!」「感動ってどういうこと?」となるだろう。
しかし感動はやはり人生にも脳にも絶対必要だ。
ではどうするか?
ここでは脳覚醒トランス状態が深まれば深まるほど、原始的な情動的感動、アイデンティティそのものへの存在的感動が全身を突き抜けるようになる。
感動ほど最強の栄養とエネルギーは他にはなく、それに脳がどっぷり浸れるんだ。
これは私の技術の中でもすごい効果を発揮する。
普段無感動の人生を送らざるをえない人でも、そうなれるんだ。
ちょっとそうなるまで頑張り通して欲しい。
私も脳覚醒技術をより効率的に進化させていくつもりだ。
抑圧処理やプラス暗示関係なく、脳覚醒トランスの深さと感動を味わっただけで、心がすっかり楽になって悩みが氷解していく人も多い。
それだけ感動のパワーはすごいんだ。
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34 知識では到達できない世界
『わかる』って一瞬だ。
『気づく』『悟る』のも一瞬の感覚だ。
一瞬ですべてに答えが出る世界、それは覚醒トランス状態の中にある。
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35 精一杯の位置
目の前の問題や心の悩み克服のために、精一杯努力をしようとする。
しかし、どんなに気力を振り絞っても解決しないのは、【精一杯の位置】が違うからだ。
人は努力のボタンの掛け違えをすると、成果が出ないだけ、不安、恐怖、焦りに支配される。
精一杯克服するための努力は尊いし、確かにやらなくては未来はない。
しかし、その位置(悩み対処法)を間違えると不毛な絶望的な闘いに陥る。
努力する位置を間違えていないだろうか?
うちには【精一杯の努力】を実りあるものに変えられるできる技術がある。
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36 自律訓練法・自己暗示の盲点
自律訓練法や自己催眠は、一人二役でやっているからバカになれない。
思いこみたい人間と感じたい人間を一人でやるからだ。
自分でやる方法はこの矛盾がずっとついて回る。
だからうまくいかなくなる。
そこで焦りや知恵を使い始めたら、もう何をやっても効果は実感できない。
脳は究極に単純明快を好む。
つまりバカになれる人間が、自分の脳を動かすことができる。暗示をかけることができる。
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